「学校は人体に似ている」

先週末の職員会議で
「学校は人体に似ている」という話しと
「対話コミュニティを創る」
という話しをしました。

今回は前者の「学校と人体」について、
若干の補足をしながら
以下にまとめておきたいと思います。

【学校は人体に似ている】

学校では、教務、進路、総務、生徒指導・・と
校務分掌が決められ、
仕事が分担されています。

それによって、業務は適正に処理され、
学校運営がスムーズに進んでいきます。

特に、調査、報告、周知という点において、
分掌による業務分担制は強い効力を発揮します。

現在各学校にある校務分掌は、
いわば、文科省→教育委員会→
管理職→職員→生徒、といった、
教育現場における一つの指示体系の中で、
ミスを防ぎ、効率的に滞りなく
業務をこなすために編み出された
最適なシステムなのかもしれません。

しかし、一方、このような領域分担型の
ガバナンスに対する不安もあります。

なぜかというと、あらゆる問題は
領域の隙間に落ちるからです。

領域分担主義が強まると、
その専門性に長けた教師が出現する一方、
「これは私(たち)の仕事ではない」
「なぜこれが私(たち)の仕事なんですか」
といった排他的な空気が生まれ、
結果、重要な案件が
放置されてしまうことにもなりかねません。

「東日本大震災津波」のときの
行政の問題はそこでした。

非常時において次々に生じる事案は、
必ずしも各領域が保有する
従来のタスクの範囲に収まるものではないのです。

では、誰かがコントロールタワーになって、
あらゆる問題をどこかの領域に
振り分ければいいのでは
という考え方もあるかもしれません。

私はそれにも疑問があります。

例えば、グローバルリテラシーの育成といったとき、
そこには様々な切り口があるわけです。

それを、国際教育だから
それは英語科の領域であるとか、
授業改善という文脈で捉えて
教務課が担当する、などと一面的な捉えで
カテゴライズされることによって、
本質が見えなくなったり、
本来持っている概念が矮小化されて
しまうのではないかと思うのです。

私たちは、分掌という強固な垣根に囲まれて
業務に携わっています。

でも、その立ち位置からだけで
語りだしてしまえば、本質に目を向けたり、
新たな価値を掘り起こしたりすることが
できなくなってしまうのではないかというのが、
私の不安なのです。

大切なことは、領域が重なり合い、
つながり合うこと。

時にその属性を捨てて本音で語り合うこと。

そして中間にあがったフライを、
お見合いするのではなく、
声を掛け合って、自ら取りに行くことが
必要ではないかと思います。

私たちの分掌での業務は、そもそもその内部で
単独で行いきるべきものではなく、
互いに他の分掌と隣接し、補完し合うことによって、
その業務が進められていくべきではないか
というのが今の私の思いです。


最近、私は学校とは人体のようなもの
ではないかと考えるようになりました。

人体には、手、足、首、目、鼻、など
様々なパーツがあり、
それぞれには役割が分担されています。

内臓もそうですね。

胃、肝臓、小腸などにも
それぞれの役割があります。

しかし、それらは、パーツとして
独立して機能しているものではありません。


A.キンブレル著の「生命に部分はない」
という本の訳者である、
生物学者の福岡伸一さんは、
プロローグの中で次のようなことを書いています。

少し長くなりますが、以下に引用します。

手首は一定の範囲にしか動かないし、
肘は一定の角度以上には開かない。
膝も反対側には曲がらない。
なぜ身体に、いちいち制限が設けられているのか。
その理由を考えることは、人間とロボットの違い、
つまり生物と機械の違いを明瞭に教えてくれる。

手首がその制限を超えて、
より外側に回転を求めようとすれば、
私の腕は自然にねじれ、肩が開き、腰は傾く。
つまり制限があるゆえに、
身体の他の部分協調的な動きが促される。

互いに他を補いながら、互いに他を律し、
すべてのパーツは相補性の中にある。

各パーツの制限は、
パーツ相互の連動のためにある。
いや、パーツという言い方が
根本的に間違っているのだ。

もし私の手首が加齢のため、痛みが出たり、
動きが悪くなったと感じたとき、
新しい手首を購入し交換することができたとしよう。
一体どんなことが起きるだろうか。

新品の手首を得た私は気分一新、
新鮮な生活を送れるようになるだろうか。

おそらく否である。

新品の手首はすぐに痛くなったり、
動きが悪くなったりするに違いない。

なぜなら、手首の痛さや
その動きの悪さというものは、
部品としての手首自体に問題があるというよりは、
全体としての私の身体の加齢や
動的平衡の乱れが、
たまたま手首に現れているにすぎないからである。

手首だけを交換してもそれらを治すことができない。
私の生命は全体として一つのものだ。

本書のタイトル「生命に部分はない」とは
まさにそういう意味なのである。


人体のそれぞれのパーツは
独自の機能を分担されているけれど、
しかし、それらは相互に補い合いながら
一つものになっているということですね。

これを読んだとき私は、
まさに学校の組織も同じことが
言えるのではないかと思ったのです。

進路指導、教務、総務・・・
あるいは、1学年、2学年、数学科、など、
各課、各学年、各教科それぞれが、
皆独自の役割を持ちつつ、
しかし、全体が関わり合いながら、
学校という生命体が
存在し続けているのではないか。

だから、どこか一つが具合が悪くなれば、
それはそのセクションだけの問題に収まらず、
全体の不調を招いていくのではないだろうか。
と思うのです。

であるならば、私たちに必要なことは
セクションごとの取組みを
強く確かなものにすることはさることながらも、
互いの連携、連帯、相互乗り入れの考えが
必要なのではないかと思うのです。

というわけで、対話コミュニティの話しに進むのですが、
それはまた後で。



 

ハンド秋季大会

昨日よりハンドボール秋季大会が始まっています。
花北の女子は新チームの選手が3人しか残らず、
急遽他の部などから
助っ人を頼んでの出場でした。

しかも相手は絶対王者、
インターハイ全国3位の不来方高校でした。
でも最後まで全力を尽くすプレーに感動。

キャプテンの畠山さんは1人で
4点をもぎとる健闘をみせてくれました。

ぜひ女子ハンドボールに応援お願いします!

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賢治祭

9月21日は宮沢賢治の命日。
ということで毎年この日、
花巻市の雨ニモマケズ詩碑前で
「賢治祭」がそれは盛大に行われております。

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花巻北高校の合唱部も出場するので
私は出場時間にあわせて出かけましたが、
何と、到着したとき、
ちょうど演奏が終わったところでした。

「なんてこった!」と天を仰いだら、
合唱部の皆さんが会場入り口のところで、
急遽私のために一曲歌ってくれました。

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大感激!

合唱部は先日、全国学校音楽コンクール
岩手県大会で金賞となり、
東北大会出場を果たすなど、
勢いに乗っていますね。

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合唱部の皆さんそして、
松岡先生ありがとうございます。


 

「女性の進出とは」

一昨日、東京にある
日本工業倶楽部会館で、
桜雲同窓会東京支部会長の小原之夫さん、
事務局の及川さん、伊藤さんとお会いし、
花巻北高校が現在行っている
国際教育に対するご協力のお礼や、
今後のビジョンについてお話をさせていただきました。

小原会長は、花巻北高校から
現役で東大に合格した最初の方、
富士銀行取締役ロンドン支店長、
みずほホールディングス取締役副社長、
みずほ情報総研代表取締役社長などを
歴任されるとともに、
現在はシンクタンクのメンバーとして、
企業などに様々な提言を行っておられる
凄い方なのです。

小原会長のお話しは、
本当に傾聴に値する話ばかりで、
私だけでなく多くの学校関係者にも
聞いて欲しいものでした。

そんな会長の話しの中から
一つ紹介したいと思います。

それは、女性の社会進出に関するものです。

企業や学校などでも、
女性の積極的な登用が叫ばれています。

小原会長は、それは単に優れた女性を採用したり、
要職につけることではなく、
それに伴って起こり得る様々な問題への
解決も含んで始めて意味をなすといわれます。

つまり、女性を採用するということは、
それに応じて起こり得る「出産」「育児」などの事象は、
当然想定されるものとして
管理者は業務体制をつくることが
必然であるということなんですね。

だから、結婚退社や出産などを恐れて、
女性をポストに敢えてつけないということは、
企業の見識としてあってはならない
と会長はいわれます。

私は、小原会長の話を聞いて、
いまさらながら目から鱗が落ちた思いをしました。

学校現場を見ても女性の教員は多いです。

でも、出産によって休職するという事態が発生すると、
どろなわ式に、代替の講師の任用を県に依頼します。

そして誰も見つからないとなると、
現場で何とか対応するという方向で進められていきます。

このようなことが常態化する中で、
女性が「自分が他の職員に迷惑をかけている」
という気持ちになったり、
管理職が「危機対応として、女性をポストにつけない」
といった時代錯誤なことを言い出す
という状況が未だに見られるわけです。

つまり、女性を採用、配置、登用するにあたり、
そういったことは想定されるものとして、
そのバックアップシステムを創出することが、
実は、その「女性のため」という文脈に留まらず、
社会全体の在り方を変えていく
イノベーションになりうるのだ、ということなんですね。

私がその時浮かんだアイデアは、
例えば、産休や育児休業の際に、
その学校に配置されるような、
学校をまたいでコーディネートする人材を
常に地域の中に置くといった、
戦略的なシステムの構築です。

地域の教育センターや教育事務所の
役割の一つとしてこのようなことが
できるのではないでしょうか。

また、指導教諭という役職の教員の役割は
今どうなっているのでしょう。

彼らを、学校内を超えて、
地域の中で活用する存在として
位置付けることは不可能でしょうか。

あるいは、指導主事の現場配置も考えられます。
岩手県は全国的にも指導主事の人数が多く、
私の記憶では、義務と県立をあわせて、
算数・数学の指導主事は30人位いると思います。

他県では、指導主事が教諭として現場に降りてきて
授業改善や学校改革を行っています。

岩手県では、指導主事は管理職への
キャリアパスのようになっています。

現場教員として還流するという
逆向きの働きがあってもいいのではないでしょうか。


私は、小原会長の話しを伺いながら、
力を持ったリーダーたる人物が、このような、
いわば基本的で真っ当なことを口にすることで、
企業や社会が変わっていくのだなとしみじみと思いました。

そして、私も、管理職の端くれとして、
こんなささやかなブログであっても
思いを発信していくことに
意味があるかもしれないと思いました。

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「支援されることから対等の関係に向かうこと」

昨日、生涯学習推進センターで、
第64回国際理解・国際協力のための
主張コンクールが行われ、
私は審査員の一人として出席しました。

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審議の間、参加生徒への
ワークショップが行われましたが、
それを担当されたのが
小原ナオ子さんという方でした。

私は、審議が終わってから
ワークショップを覗きに行きました。

もう残り5分という段階でしたが、
そのときの小原先生の話に
私はとても心が動かされました。

それは、開発途上国の人々が望んでいるのは、
「支援される」ことではなく
「対等であること」という言葉でした。

私はそれを聞いて、東日本大震災の
復興について思いを巡らせていました。

震災直後は、被災地の住民は
「支援される」存在でした。

しかし、復興が長期化する中で
浮かび上がったことは、
支援される側であった被災地の住民が
「受動」から「主体」として
立ち上がっていくことこそが、
復興を持続可能にしていくということでした。

その地域にいる人間が、
取組みを自分事にしていくこと。

つまり、自ら新しい価値を創りだし、
地域の中で雇用を生み出すこと、

そして、支援する側との
対等な力関係によって
復興が進められるということです。

そのように見ていくと、
今や、開発途上国の人間は、
「支援される」側を超えて、
次のフェーズへと進化している
ということが言えそうです。

さて、このように考え進んだとき、
私は、学校教育における学びの問題についても
同様の構造があることに否応なく気づかされます。

それは、生徒が、教師から知識を
一方向に与えられ、それをひたすら
受動するという存在から、
教師と学習者が向上心を共にする
同志として互いに学びあう、
という対等の関係に進んでいくということです。
これが「教授パラダイム」から
「学習パラダイム」へと向かうフェーズの転換です。

「学習パラダイム」への転換が叫ばれる今、
私たちは専ら、授業者、
つまり教師の立ち位置にポジショニングして
解決を図ろうとしているのではないでしょうか。

だから、アクティブラーニングというと、
様々な授業手法、
あるいは、「教師が」どのようにして
生徒を深い学びに導く問いを立てられるか、
などにばかりフォーカスされがちです。

でもそこには、やはり、
「教師とは生徒に知識を授ける者である」
という目線が感じられるのです。

むしろ、私たちは、学習者の方に
ポジショニングしていくことが
必要ではないかと思うのです。

学習者が、一方向的に
知識がインストールされることへの
問題意識を持ち、自分事として
学びを考え始めるとき、
本当の「学習パラダイム」への転換が
起きるのではないか。

そういう意味で、
学習パラダイムへの転換とは、
学習者の意識改革であり
独立運動なのかもしれません。

もちろん、その意識の変革は、
教師が学習者に(おせっかいに)
植え付けるのではなくて、

教師や学校という、学習者をとりまく
「環境」そのものが、実は彼らのその芽を
つぶす存在かもしれないことに気づくことが
最初の一歩なのかもしれないと思うのです。