「『学ぶこと』と『生きること』」

卒業式前日の2月28日に
第27代東大総長
佐々木毅先生の講演会が行われました。

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演題は「『学ぶこと』と『生きること』」。

佐々木先生のお話は生徒だけでなく、
職員にも同じように響くものでした。

なぜなら、「学び」について語りながら、
実は人間が「自由に生きる」という
根源的なテーマにつながる
話だったからです。

今こそ「学び」の哲学を語るべき、
と思いました。

この講演の内容を、以下に
私なりにまとめておきたいと思います。


【学ぶこと】

「人間とは何であるか」
という問いを立てたとき、
その答は様々である。

「人間とは労働する動物」
「人間はポリス的動物」等々。

佐々木先生は
「人間は学び続ける動物である」
と提起する。

そして「学び」を、以下の様に
「知る」「理解する」「疑う」「超える」
という4段階で捉える。

①第一段階(知る)
お手本があり、答があるものを学ぶ。
作業、訓練という意味合いが強く、
新しいことを見つけ出すよりも、
誰かがやってきたことを
受け取るという段階に留まる。
学校で行われる「勉強」の
多くにその形が見られる。

②第二段階(理解する)
異なる考え方を受け入れ、
「なぜ」を掘り下げ、
理由や根拠を問いただしていく中で、
自分の意見を持つ。

③第三段階(疑う)
理解したものを更に問い直して
いくことで知識を強く深いものにする。
前にやってきた人の成果を疑い、
オリジナリティを打ち出す。

④第4段階(超える)
疑うことを超えて、
既存の思考パターンから自由になり、
新たな価値を創り、
イノベーションを生み出す。

学ぶとは人生をどう生きるか
ということである。

福沢諭吉の「学問のすすめ」は、
人間が思うがままに生きるために
「何をどう学ぶか」が書かれた
優れた書物である。

学び方によって、
生き方には雲と泥の違いが生まれる。


【ステレオタイプ】

「物事をじっくり観察し、
然る後に判断する」ことが
知的な人間の行動原理である。

しかし、最初から決め打ち(思い込み)
してから物事を見る、
という倒錯がしばしば起きている。

そこには見たいものだけ見て、
いい気分になりたい、
不安から解放されたい
というメンタリティが働いている。

このような「色眼鏡」で観る見方を
「ステレオタイプ」という。

これでは学びは前に進まない。

人は慣れ親しんだ世界が心地よい。
すると、学ぶことをやめたくなる。

人間は「学び続ける」ことと
「学びをやめたくなる」ことの
せめぎあいの中で
生きているのかもしれない。

【専門家を越えた専門家】

専門性を身につけること、
つまり、ある様式、公式に従って
物事を処理する能力を
身につけることは必要である。

しかし、専門家のために
世の中があるのではなく、
世の中のために
専門家があることに
注意しなければいけない。

自分の専門性は大事だが、
それは事実や現実の一部を
解決する手段に過ぎないのだ。

枠にはめこむ前に、
どう扱うかの判断が必要。

つまり、世の中の
いろいろな事象に対して、
それを深く観察し、
どう「見立て」を行い、
どんな処理を選択するか。

それが専門家を越えた
専門家の視点である。

往々にして専門家は、
その事象をしっかり観る前に、
自分の専門の領域に
落とし込もうとする。
それは色眼鏡でものを見るということだ。

<所感>
この話を聞いて、
私は学校経営における
分掌制をイメージした。

領域分担型(つまり校務分掌)
と言われる縦割りのガバナンスは、
専門的、機能的、効率的であり、
教育現場の一つのスタンダードとして
定着している。

しかし、そのシステムは、
自分の範囲だけを
まかなうことの危険性、
互いに相手の領分に口出ししない
という排他性も内包している。

そして、多くの事象は
その領域の隙間に落ちる。

それにもかかわらず、
その洞察を十分に行わず、
どこかの領域に落とし込んで
形式的に処理しようとするのは
思考停止の世界である。


【努力と成果】

努力に「比例して」成果がある、
ということはない。
しかし、努力を続けていると、
いつか急激な変化が起き、
一皮むけた状態になることがある。

このことは、すべての人に
あてはまるものではないが、
努力し続けていかない限り
その変化は起きない。

佐々木先生は東京から
秋田に向かう電車の中で、
苦手な数学の
ある問題を解いていたときに、
突然ヒラメキが起き、
解答に達することができた。
するとその後、
ほぼどんな数学の問題も
解けるようになったという。

<所感>
確かに、プラトー状態からある瞬間
メタ認知が起き、
クウォンタムジャンプする経験が
私にもある。私は、これは
「コンパスを手に入れる」
ことではないかと思う。

「コンパス」とは、
数学の問題であれば、
異なる問題であっても
そこに共通するポリシーや
ストラテジーのようなものだ。

宮沢賢治や
レオナルド・ダ・ビンチは
様々なジャンルで才能を
発揮したが、それは、
単に多才であるというのではなく
あらゆる事象に対し、
そこに通底する本質を見抜き、
一つのコンパスによって、
扉を開け、地平を切り開き、
すべてのことを共通の視点で
俯瞰する能力に
秀でていたからではないだろうか。  



【現代の課題】

人口減少社会の到来により、
需給ギャップが起こるなど、
社会の在り方が変わる。
19世紀、20世紀は
機械化が進んだが、
人間が機械に
置き換わることがなかった。

また、20世紀は、
人間は労働によって富を生みだし、
それを分かち合う
という時代だった。

しかし、21世紀は、
機械、AIが富を生む時代である。

このような時代の変化によって
働き方が変わる。
そして、時代の変化は
生き方の変化につながり、
さらにそれは学びの変化に波及する。

働き方が変わるとは、
何回も「選択」し、
何回もチャレンジするということ。

そして「選択」するということは
自由であるということだ。

人は一つのことを学ぶのではなく、
第二第三の学びがあり、
その新しい学びをテコにして、
新しいチャレンジをしていく。

学ぶ、学び続けることは
自分の人生を引き受けることだ。

それぞれがどう自分の人生をつくるか、
それは学ぶことでしかできない。

これは世代の共同の課題である。


【凄い人と出会うこと】

大学で「凄い人」と出会って欲しい。
「凄い人」とは、自分を鍛え直し、
磨くことができる存在。
その人が何者であるかなどは
問題ではない。

<所感>
凄い人とは、凄い経験をした人、
凄い業績をあげた人ではない。
もちろん、肩書が凄いとか、
有名人であるとかでもない。

私は、「凄い人」はむしろ
自分の中にあると考える。
つまり、人が持っている
「凄さ」を感じ取る
「確かな眼鏡」を持っていることが
大切なのではないか。

凄い人が見つからないのは、
自分のまわりに
そういう人がいないのではなく、
自分の隣にいる「凄い人」を
凄いと見抜ける力が
ないということなのだ。

私は、「凄い人」を
たくさん知っていて、
その人たちから
多くのパワーをもらっている。

でも、凄いのはその人たちではなく、
自分だと思う。

私は人の凄いところを見つけ、
尊敬し、彼らから
学ぶことができる。

それが私の自慢だ。


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佐々木先生、ありがとうござました。





 

「カッコ付の個」

羽生結弦さんが、
オリンピック連覇後のインタビューで
こんなことを話していました。

『スケート』だけじゃなくて、
こうやって『羽生結弦』として、
たくさんの方々に
育てていただいたことを
本当に感謝しています。」


また、スピードスケート金メダリストの
小平奈緒さんは、

「金メダルをもらうことは
とても名誉なことですし、
嬉しいんですけれど、
どういう人生を生きていくかが
重要だと思うので」

という言葉の後、
自分をバックアップしてくれている
相澤病院に対して、

「相澤病院は自分が本当に苦しいとき、
『成績』よりも自分の『夢』を応援してくれた」


と言っています。

さらりと話されたこれらの言葉ですが、
なるほどなあ、と私の胸にささりました。


オリンピックアスリートは、
多くの人々から支援を受け
応援される存在です。

そこには、彼らに対する
リスペクトと同時に、
一方で「結果を残すこと」への
周囲の過剰な期待が見え隠れします。

期待通りにメダルをとると、
人々のボルテージは
これでもかというほど舞い上がり、
選手は英雄にまつりあげられます。

しかし、結果を残さないと、
その熱量は急速に冷めていく・・・。

私たちは、『アスリート』という
カッコ付の個に対して恋い焦がれ、
さらにそれがメディアによって
増幅されていきます。

そのような中で、
過剰な思いのベクトルはしばしば
自分たちに向かっていきます。

例えば「感動をありがとう」という言葉には
「私を気持ちよくさせろ」という
ある種傲慢で強迫的で即物的な
メンタリティを私は感じます。


羽生さんの言葉には、
「フィギュアスケーターとして」
だけでなく、一人の個として
多くの人が自分に向き合って
くれていることに喜びを感じている
ことが汲み取られます。

また小平さんは「成績」を期待する
周囲のプレッシャーの中で、
「夢」を応援してくれる
相澤病院の存在がいかに大きいかを
語っています。

ああ。オリンピアたちは、
競技だけではなく、
「成績」「結果」に鵜の目鷹の目になる
周囲の視線とも戦っているんだなあと、
私は少し切ない気持ちになったのです。


さて、ここで、
少し飛躍するかもしれませんが、
私は羽生さんや小平さんの言葉から、
学校における生徒と教師の関係について
思いを巡らせていました。

教師は学校現場で子どもたちを
「生徒」というカッコ付きの存在として
眺めています。

更にいうと

「『花巻北高校の』『生徒』」

というように
二重のカッコ付き(肩書付)で
相対しています。

「勉強と部活動をしっかり頑張れ」
「ちゃんと挨拶をしなさい」
「提出物を出しなさい」
「進路を決めなさい」
「スマホを教室で使うな」
「花高生として誇りをもって」

などといった言動を
教師が行うのは、
彼らを「生徒」という属性の中で
観ているからです。

そこには、彼らへの「期待」や、
立派に育てようとする
「使命感」が存在します。

しかし一方で、
「生徒」とは過剰に期待され、
結果を求められる存在として
扱われているようにも見えます。

また、教師も、
生徒や保護者や同僚から
「先生」というカッコ付きで
見られる存在でもあります。

カッコ付の組織は、
成果を最大化するための効率的な
システムかもしれません。
でも、反面、主体性・多様性・協働性が
生まれにくい土壌のようにも思えます。

そして、カッコつきの人間と
カッコつきの人間との会話は、
いつまでもステレオタイプです。

本当は「学校」というコミュニティの中で、
「生徒」は一個の人間として、尊重され、
対話をして欲しいのではないか。

「生徒」「教師」という
カッコをはずしたときに
生まれる魂の出会いが、
教育なのではないか。

そして、そのような中で、学校が
「互いにリスペクトしあい、
共に成長する同志による
学びのコミュニティ」として
生まれ変わっていくのではないか。

そんなことを思ったのでした。



「教授パラダイム」から
「学習パラダイム」への移行とは、
授業手法の工夫改善を云々するよりも、
そういったことではないかな、と。


おまけとして。

羽生さんのこの言葉に
もう一つ思ったことがあります。

私はそろそろ退職を迎えます。
すると、これまで「校長」とか
「教師」とか「数学の先生」
というカッコ付きの中で
生きてきた私ではなくなるわけです。

すると周りはどう変化するでしょう。

コミュニケーションは変わるのだろうか。

退職のその日をもって、
周囲の対応はガラリと
変わってしまうのだろうか。

いや、それよりカッコがなくなったとき、
自分は何者であると語れるだろう。

裸の自分に自信をもてるのだろうか。

もしかしたら、
過去のカッコ(しゃれ)だけを
語りだしてしまわないだろうか。

すみません。
最後におかしな話になってしまいました。


 

「地歴AL研修会振り返りPART2」

もうだいぶ昔の話になってしまいましたが、
2月2日に行われた、地歴AL研修会での、
さっちゃんこと筑波大学五十嵐先生の
授業についてまとめておこうと思います。

尚、授業メモを失くしてしまったので、
曖昧な記憶を頼りに
記してしまうことをご容赦ください。


授業の冒頭、
昨年度本校を卒業した大江さんから、
自身が高校時代に行った
マルカン復興の取組みについての
お話がありました。

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五十嵐先生は、大江さんの話しを受けて、

「私にとってマルカンとは」

という問いを立て、
ペアでの話し合いを行います。

「小さい頃からの思い出の場所で、愛着がある。
だからなくなることは嫌」

という意見が出る一方、

「特に思い入れはない」

という意見も出されました。

そこで、五十嵐先生は生徒から発せられた
「愛着」という言葉に注目し、

「花巻に対して愛着がある?ない?」

という第二の問いを立て、
「ある派」「ない派」を混ぜ合わせて
グループディスカッションを展開します。

ここで、筑波大学の学生6名と、
大江さんを含めた京都大学の学生3人が
生徒の議論に混ざり、討議を活性化
させているのも注目ポイントです。

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花巻に愛着を持っている生徒の多くは、
花巻を「昔からの思い出の場所」
「友人との語らいの場」「ふるさと」
と受け止めていて、
花巻がなくならないように、
魅力あるまちづくりが必要である
といった話をします。

一方で、

「花巻以外にある魅力的な町や、
便利な町を私たちが選んで出ていくことは
そんなに悪いことではない。
悲しいことかもしれないけれど、
それが自然の流れではないか」

という意見も出されました。

もちろん「ある派」が多数ではあったのですが、
「将来花巻に住みたい」
と考えている生徒を挙手させたところ、
何と40人中5人しか手が挙がりませんでした。

つまり

「愛着はあるけれど将来花巻に
住もうと思っていない人が90%近くである」

という状況が明らかになってしまったのです。

五十嵐先生はここで、
生徒たちを立ち止まらせる問いを投げつけます。

それは、

「愛着」「ふるさと」「昔の思い出」
などといった言葉の主語は誰なのか、
つまり、誰にとっての「ふるさと」なのか、
という問いです。

それは「自分」なのか「花巻市民」なのか。

もし、「花巻市民」にとっての「ふるさと」とすれば、
このクラスの12.5%しか
花巻に残らないといっているので、
将来花巻に住む人はどんどんいなくなって、
やがて潰れてしまうのではないか。

こんな話をしながら、

「じゃあどうすれば花巻を残すことができるか」

という第三の問いに進み、
更にグループでの議論を展開します。

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生徒達からでてきた意見は
例えばこんなカンジだったかと思います。

●町が無くなっても文献などで名前を残す。
 (花巻江戸時代化計画)
●花巻ならこれ!という
 アピールポイントをつくって発信する。
 (強み発信計画)

ここで、五十嵐先生は
生徒達の意見をまとめながら、
次の様な提起を行います。

「ふるさと」につけられていた
「自分の」「花巻市民の」
という冠を取り去ってみる、

そして、その代りに「日本中の」「世界中の」
という冠をつけてみたらどうだろう。


更に、「市民」とは誰なのか、
という問いに置き換えて話を深めます。

「市民」とは、「その市に住んでいる人」といえる。
しかし、そのように捉えてしまうことで、
状況は悲観的になってしまうこともある。

実は「市民」にはもう一つの意味がある。
それは、「誰でも」「すべての人」
というものである。


このような流れで、
境界を越えて全ての人が
まちづくりに参画する政治が
民主政治の理念であるという理解に
生徒たちを導いていきます。

そして、そのモデルとして、
「モノ」ではなく「生き方・暮らし方」を
全米に向けて提供している
ポートランドについての紹介がありました。

このポートランドの例を踏まえながら、
最後の問いを発します。

「花巻」という「暮らし方」をどうやってつくるか。

「花巻という町」を残すのではなく
「花巻という魅力的な暮らし方」を
どうやって日本中の人達に提供できるか。

どんな暮らし方をすれば、
日本中、世界中の人が幸せになれるか。

つまり、世界が幸せになるために、
「花巻」をどう使うのか。


このような問いを生徒達に投げかけて、
授業が終了しました。


この授業は、ありがちな、
地域復興のアイデアを出し合う
ワークショップではありません。

それを越えて、
「地域復興」という御旗の中に
隠れてしまっている命題を掘り起こし、
そして、その議論に向かう人々のマインドを
問い直していこうという授業なのです。

すると、そこに存在する哲学は、
花巻復興という文脈に留まらず、
様々な事象に通底するものと
捉えることができるのではないか、

授業を聴きながら、私はそのように感じました。

実は私は、この授業を、
途中から勝手に頭の中で
「授業論」に読み替えて聴いていました。

例えば「地域復興」を「学力向上」
という命題に置き換えて考えてみます。

「学力向上」というと、
往々にして様々な手法や、
どんなコンテンツを提供するかといった、
プラクティカルな方向に議論が進みがちです。

そして、誰もがすぐ使える「解答」を求め、
学力向上を「自動化」しようとします。

しかし、「こうすれば得だよ」、
「このメソッドが効果的だよ」、といった、
ある意味哲学なきスローガンは、
一時をしのぐカンフル剤になるかもしれませんが、
持続するものになるか疑問です。

五十嵐先生は、「ふるさと」に被せられた
「自分」という冠を外す、
ということを提起されました。

それは、授業において、
教師が従来の固定観念に
とらわれていることから解放されること、
あるいは、肩書や属性や過去の慣例
などといった「鎧」を脱いでいくことではないか。

また、「花巻にあるモノ」ではなく
「花巻という暮らし方」を提示するというのは、
「授業メソッド」ではなく、
教師の佇まいを含めた
新たな学校文化を構築することによって、
生徒の心を動かそうとすることではないか。


「学力向上」のために教師はどうするか。
「魅力ある授業を提供する」
では「魅力ある授業とは何か」
それは、スペシャルなコンテンツという
「解答」にひたすら触手を伸ばすことではない。
教師がどんな哲学を持って
「学び」に向かうかということ。
これが生徒の心を掴むための生業である。
そのためには、肩書や属性といった鎧を脱ぐこと。
そして境界を越えて人が繋がりあうこと。
そんな学校文化をつくっていこう。


「花巻復興」のために市民はどうするか。
「魅力ある花巻を提供する」
では「魅力ある花巻とは何か」
それは、イベントやインセンティブなどの
「カンフル剤」に手を出すことではない。
市民がどんな哲学を持って
「暮らし方・生き方」を提示するかということ。
これが世界中の人々(=市民)の
心を掴むための切り札になる。
そのためには、肩書や属性といった鎧を脱ぐこと。
境界を越えて人が繋がりあうこと。
それを基盤にした社会をつくっていこう。



そんなことをぐるぐると考えていました。

そこで私はハッと気づきました。

そうか。

実は、今回行ったAL研修会で
私が抱いていたテーマはこのことだったのだ。

つまり、五十嵐先生の授業は、
実は我々教師に向けての
メッセージでもあったのだと
ビビッときたのです。

それは、うがち過ぎ
という人がいるかもしれません。

しかし、学びとは、
教授者が何を与えたかではなく、
学習者が、そこから何を
自ら掴みとったかということ。

だとすれば、参観した教師たちは
五十嵐先生の授業から、
想像力を働かせてメッセージを
自分事として受け止めなければなりません。

少なくとも、教えのプロを標榜する
教師であるのならばなおさらです。

そして、研究会では、
評論家目線で授業分析するのではなく、
自分が何を掴み取ったかについて、
皆でディスカッションする場であれば
良かったなあと感じていました。


 

「日本史×政治経済コラボ授業にみる3つのチャレンジ」

2月2日に行われた、日本史A✕政治経済の
提案授業について振り返ってみたいと思います。

この授業には
3つのチャレンジがあったと思います。

一つは、授業者の学校を越えたコラボレイトです。

今回の授業を行うにあたり、
本校の助川教諭と盛岡三高の高屋教諭が、
学校を越えて共同で教材を研究・開発し、
実践を行うことができたことは
大変画期的なことではないかと思います。

このように互いのリソースを
共有することによって、
教師の見識が高まるだけではなく、
それが他の教員に波及していく文化が
生まれていくことを私は期待しています。

髙屋教諭が、授業後の振り返りの中で、

「助川先生と事前の授業構想を一緒に練る中で、
先生の教材感に大いに刺激を受け、
私にとってはまさにOJTでした」


と話されていたことがとても印象に残っています。

今後の高校再編を考えるにあたり大切なことは、
局所的な手当てではなく、
全県的な視点に立っての
マンパワーの活用ではないかと思います。

それは、数をどうするかの問題ではなく、
学校という境界を越えて交流し、
知見や授業技法を共有しあうような
コミュニティを生みだす
ことではないかと思います。

そういう意味で、
今回の授業後の研修会において、
校種、職域、地域を越えた参加者による
ディスカッションが行われたことも
特筆すべき点として
付け加えておきたいと思います。

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二つ目のチャレンジは、
クロスカリキュラムの視点です。

本時の学習テーマは、
「戦後の日本経済の流れ」を理解し
「今後の日本経済」について確認する、
というものでした。

そこで、まず、戦後政治史の変遷という
歴史的側面について、
前日までの段階で本校の助川教諭が担当します。

そうやって土壌を耕した後に、
高屋教諭が政治経済の視点に立って
タネをまいていったのが
本時の授業であったということです。

授業展開をもっぱらリードするのは、
政治経済担当の高屋教諭であり、
助川教諭はサブに徹して
授業をサポートします。

私は、今回の授業を参観しながら、
助川教諭というOS上に、
髙屋教諭というアプリケーションが
起動されているというイメージを抱きました。


教科どうしをつないで、
教材に新たな息を吹き込むこと。
それによって、テストのための勉強から、
生きて働く知識に展開される。

今後の教材研究、教材開発は
このような視点が
求められるのではないかという気がします。

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余談になりますが、私は、この授業を観た後、
数学と保健コラボレーションを考えました。
内容は、今年のセンター試験の
データ分析問題の解説を数学の教員が行い、
その後、保健の先生に
バトンタッチするというものです。

なぜかというと、今年のセンター試験には、
BMI(ボディマス指数)の話題が
何の説明もなく登場していたからです。
この問題は、ロジックを駆使すれば
パーフェクトに答を出すことができるでしょう。
でも、たとえ答が求められても、
保健・健康の視点がなければ、
その問題が訴えている本質、真実には
到達できないと私は思うのです。


さて、

三つ目のチャレンジは、メディアの活用です。

髙屋教諭は、この授業を行うために、
前もって20分ほどの事前学習動画を作成し、
YOUTUBEにアップしました。

初対面の授業ということもあり、
これは大変効果的であったと思います。


ここで、「反転授業」について
少し論じておきたいと思います。

高屋教諭は配布プリントで反転授業を
次のように説明されています。

「事前に各自で
動画視聴などを通して
個人で知識を理解
→授業では知識を活用して
思考や表現をする」


つまり、「表現」を活発に行う授業にするための
前提として、事前に家庭等で
準備をしておくということですね。

ところが、しばしば、反転授業を、
「教師が授業をスムーズにすすめるために、
前提となる知識を家庭で予習しておく」
と捉えている教師に出会います。

それは単に、「予習をして授業に臨め」
というのと変わりませんね。

気をつけなければならないのは、
このような事前課題とは、
教科書の進度を確保するといった、
教師の都合で行われるのではなく、
あくまで、授業をワクワクさせたいとか、
対話型のアクティブな授業を展開する
という目的がその先にあるからこそ
行われるということを
明記しておきたいと思います。

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「反転授業」で私が思い出すのは、
サマンサこと才神敦子さんが行う
「ドラマキャンプ」。
全国から子どもや大人が一同に集まり、
そこで英語劇を創作するという活動です。

サマンサさんは、集まってから、
何をするかなどの講義を行うのではなく、
事前に参加者にシナリオが配っておきます。
そのことによって、
「教室」という空間に集まった人たちは、
知識のインストールからではなく、
最初から対話や創造の活動を
自発的に行っていけるわけです。

私は、今回の授業動画の配信は、
授業の中で対話を活発にさせること以外に、
以下のような価値を感じました。

1 スマホなどのデバイスを
 授業で活用することについての
 問題提起。

2 開発した優れた教材を
 メディアコンテンツとして蓄積し
 それを共有化するという展望。

3 今後のZOOMなどのテクノロジーを用いて
 外部とつながる授業の可能性。

以上、私が今回の授業で感じた
3つのチャレンジについてまとめてみました。


最後に、高屋先生からメールでいただいた
振り返りの中で、
「深い学び」について
大変興味深い記述がありました。

高谷先生に許諾をいただきましたので、
その部分を以下に掲載させていただきたいと思います。

ご意見やご感想をいただければありがたいです。



 <前略>
特に私の中で最も心に残り、
今後の授業作りの大きなヒントになったのが、
研修会で同じグループだった
次世代型教育推進センターの先生から出た疑問です。
それは、
「前半の戦後の日本経済史を概観するという活動が、
後半の生徒の思考する活動に
どの程度生かされていたのか」
というものです。

私としては、前半のA~Dの時代の流れをつかむ中で、
経済状況には波があること、
好景気は一定の要因があって発生すること、
等に気づかせながら、
それらの要因がこれからの時代ではどうなるのか、
また各要因を総合的にみたときに
果たして景気は上向きor下向きとなるのかを考えさせる、
という授業のイメージだったのですが、
後半発表した2人の生徒から出てきた

「オリンピックや改元で多少上向きになって、
その後は停滞するのでは。」

といった(おそらく大半の生徒がそこに落ち着いた)意見は、
ひょっとしたらプリントAからの学びがなくても
出て来得るもので、
プリントAとプリントBのつながりを
うまく作れていなかったな、と反省しました。

もっとプリントAを通して
約70年間の経済の波(好景気の後には不景気、
不景気の後には好景気というように
いろんなきっかけで景気が変動していく様子)を
生徒が感じとれるようにしていけば、
違ったかもしれ ないと思います。

「主体的・対話的で深い学び」の中でも
特に「深い学び」の部分に
どう生徒を連れていくのかが
私の中の授業改善の課題の1つです。

恥ずかしいことですが、
「主体的・対話的」にばかり自分の意識が行って、

「生徒が活発にわいわいやりとりしている授業
=AL型のいい授業」

であるかのような錯覚をしていた時期がありました。
その時、(気のせいかもしれませんが)
生徒の側も授業の中で一生懸命ALっぽく
振る舞い始めるような気配を感じ、苦しくなりました。

授業者として自分が無意識に生徒に伝えていた
無言のメッセージが、以前は

「机に座って授業者の話を黙って聞き続けることが
あるべき生徒の姿だ」

としたら、今度は

「一生懸命となりの生徒と活発 に話し合うのが
あるべき生徒の姿だ」

に変わっただけではないか、と思ったからです。

でも
「それは違う、ALで授業中の
生徒の多様な姿・考え方を引き出したいのに、
画一的な生徒のあり方を押し付けてるのでは
旧来と何も変わらない」
と思いました。

そして、「主体的・対話的」な結果として
「深い」学びになるのだとしたら、
どう学びの深さを保障するのかを考えなくては、
と思いながら、
「でも深い学びの「深い」って何なんだろう」
っていうのが正直な気持ちでした。

そして今回、この
次世代型教育推進センターの先生のご指摘から、
「学びの深さ」を見取る指標の1つに、
授業内の「知識・理解」の活動が
「思考・判断・表現」にどう生きていたのか、
「知識・理解」の活動があった場合と
なかった場合とでは、
「思考・判断・表現」の活動に
どのような差が生まれたのか、
という視点があるのでは、という気づきを得ました。

ひょっとして、「知識・理解」の活動がなくても
言えてしまうような発言ばかりが
「思考・判断・表現」の中で出てきていないか、
を冷静かつ具体的に見ていくことが、
生徒の学びの深まりを作る授業につながる、
という気がしています。




高屋先生の授業に対する真摯な姿勢と
プロフェッショナリズムを感じる振り返りです。

今後、更に多くの人達が、この学びの輪に
加わる中で、新たな気づきが生まれてくるものと
思っています。



 

「私は何歳だと思いますか」という問い。  

先月、尊敬する母校の先輩である、
キムTこと木村利光先生と、
北上地区PTAでコラボ講演を行いました。

その講演会で、木村先生は
こんな話をされました。

生徒の前で自己紹介する際、
最初に

「私は何歳だと思う?」

と問いかける。

生徒達は「50歳」「55歳」「65歳」
などと口々にこたえる。

そんな生徒たちに対して
「ピンポーン!全員正解!」
と言う。

なぜ全員正解なのか。

それは、最初の問いかけが
「自分は何歳か?」ではなく
「何歳と『思うか』」という、
いわば答えのない問いだから。


というものです。

つまり、その問いに対し、
自分が一生懸命
その根拠を考えながら
出した答えならば、
それはすでに正解なのだ、
というわけですね。

大切なことは
正解を知っているかどうかではなく、
想像力を働かせること。

たとえそれが
「正解」とは異なっていたとしても、
間違いを恐れず、思ったことを
発信することにこそ価値がある。

そしてその「答」が
真実と異なっていたとしても、
自分で考えだしたという経験を経て
真実に到達することの方が、
より強い理解につながっていく。

私はキムTの話をこのように受けとりました。

ちなみに余談ですが、彼のこの
「年齢クイズ」にはオチがあって、
本当は「3歳」なのだそうです。
なぜなら「利光=(としみっつ)」だから。
こりゃあ爆笑ですね。


「対話」における「問い」の基本は、
相手の気持ちや思いを知りたいからこそ
発せられるものだと思います。
だから、そこには
「正解」が存在しているわけではありません。

しかし、今、教師や親が、
子どもに行う「問いかけ」をみると、
往々にして、
既に教師や親が持っている
「正解?」に導こうとするものだったり、
あるいは、自分が有している「正解?」を
子どもがその通りこたえられるか
「験す」ものになっていないか、
私はそんなふうに感じるのです。

そんなことをつらつら考えていたら、
先日PTA講演会で話題にした、
ヘリコプター&カーリングペアレント
のことを思い出しました。

これは以前ブログで述べたことと
重なるかもしれませんが、
また書こうと思います。

ヘリコプターペアレントとは、
子どもの上空で常に目を光らせ、
子どもが嫌な思いをしたり、
失敗しそうになったときに舞い降りて来る親、

カーリングペアレントとは、
子どもの行く先々の障害物を
先回りして取り除き、
子どもを誘導する親のことなのだそうです。

いわゆる過干渉・過保護ということですね。

するとある人から、
ヘリコプターティーチャー、
カーリングティーチャーというのも
あるのではないかと言われ、
なるほどと頷きました。

それは、子どもの学力は
すべて自分の指導によるものと勘違いし、
過剰に語り、すべて自分の掌で
生徒をコントロールする教師のこと。

そして、子どもの考え方を、
教師の思う方向に
無理やり導こうとするというものです。

いわば、教師と保護者は
生徒を幸せにするための同志であるとともに、
生徒をスポイルしてしまう
共犯関係にもあるのかもしれませんね。

ちょっと絵を描いてみました。

hcpt.png


ヘリコプター&カーリング
/ペアレント&ティーチャーとは、
子どもをより良い方向に
導きたいという強い思い(=愛)が
根本にあると考えて、
どちらもかわいく描いてみました(笑)。

つまり、子どものために先回りして
手を打つこと、
コントロールしようとすることは、
子どもを傷つけたくない、
失敗させたくない、
もっと「できる子」にしたい
という思いがあるからこそなのでしょう。

でも裏を返せば、それは
「傷つくあなたは許せない」
「できないあなたはもっと許せない」
「だからあなたは~すべき」
というメッセージにもなります。

そして、そもそも人は、
ひたすら「他よりできるようになる」ために
生まれてきているわけではないのです。

ウルグアイのムヒカ大統領は、
人間は発展するために
生まれてきたのではない。
そして発展は幸福を阻害するもの
であってはいけないと言っています。


ところで、先日、
つねに一歩先行く
教育改革のフロントランナーであり、
未来からの使者であり、
かつ宇宙人でもあるらしい、
尊敬する江藤由布先生が
フェイスブックの記事に
このようなことを書かれていました。


繰り返し言っているのは、
・Don't worry if your're not finished.
・It's important to try new things.
・Having the right answer is NOT important.
・Help each other.
 さらに、
・There’s no wrong idea as long as it has a reason.

なぜなら、生徒たちが以下のように
ギプス状態だからです。

①普段の授業できれいに書いて
 提出することばかり求められてきたので、
 どうしても最後までできないといけない
 という呪縛がある

②普段の授業で同じことの繰り返しだったので、
 新たな挑戦への恐怖がある

③正解でないと再テストを課せられて来たので、
 答えを欲しがる

④小テスト慣れしすぎて、人の答えを
 見てはいけないと信じ込んでいる。

⑤アウトプットの構造自体何も教えられていない。


これまた膝打ちまくりで、早速メモメモ。

さすが宇宙人。

私はこれまでブログの中で、
教師の発問について何度も書いてきました。

なぜかというと、その発問、問いかけに内在する、
教師のヘリコプター/カーリング的教育観や、
さらに言うと、学校教育の構造的な問題点が
見えるように思うからです。

というか、教師の注入型・行動主義型メンタリティは、
そういった構造によって
産み落とされたものなのかもしれません。

であるなら、逆に考えて、
この「対話」「問いかけ」を見直すことが、
学校教育の根本を変えるための
はじめの一歩になりうるのではないか
とも思っています。