「承認欲求という難敵」

私は今、株式会社惣兵衛の代表取締役で、
Sobe’s Cafeのオーナーでもある、
畠山さゆりさんのプログラムモニターとして
お世話になっております。

第一クールでは体重や体形の
顕著な変化が得られました。

今、第二クール。

具体的な内容はモニターなので詳しく明かせませんが、
「うまくいきそうでいかない理由」で有名な
佐藤由美子さんと畠山さんは連携をとられていて、
佐藤さんの「10秒ワーク」の手法なども
取り入れておられます。

そのプログラムの中で、
いろいろな形でフィードバックをいただきながら、
私は多くの気づきや学びを得ています。

「さゆりメソッド」は非常に奥深く、
私は特に、学校教育に取り入れたい
エッセンスが豊富であることに惹かれています。

私は、このプログラムに取り組むことで、
今後の学校改革や教員研修の場などに
活用していきたいという思いがあります。

では、そんな中で生じた、
最近の気づきについて記したいと思います。


私は、毎朝ジョギングをしていますが、
走りながら考え事をしていると、
パッとしたヒラメキ(さゆり語によるとパカチョという)
がしばしば生まれます。

ま、後で冷静に振り返ると
たいしたことなかったりするのですが。

さて、先日雪の中決行した朝ジョグで
「承認欲求」のことをずっと考えていました。

すると、閃きがありました。

パカチョきた~!


それは、悩み事、不安、依存、怒り、
果てはアクティブラーニングや
カリキュラムマネジメントまで、
森羅万象あらゆるものが、
「承認欲求」というタームで
説明・分析できるのではないかということです。

例えば、不安やイライラについて考えてみます。

私はわりと心配性なところがあり、
人に迷惑をかけたのではとか、
自分を不快に思っているのではないかなど、
過剰に不安になることがあります。

だいぶ昔のことですが、私がある方に、
お世話になったお礼にと、ある物を制作し
贈ったことがあります。

ところが、その後、
返信がしばらくなく不安になりました。

最初は「ちゃんと届いたのか」
「住所は間違っていなかったか」
などの思いだったのですが、

その後、
「もしかしたら、贈られて不快に思ったのではないか」
などと自分を責める方向に妄想が膨らんでいきます。

更に「早く気持ちを落ち着けたい」という焦りから、
メールを頻繁にチェックし、
そして、メールが来ていないとわかると
とたんに力が抜け
「ストーカーと受け取られたのではないか」
などとまたあらぬ妄想が始まります。

このような自意識過剰・自分劇場型メンタリティは、
恐らくその人から「嫌われたくない」
「よく思われたい」「認めて欲しい」
という承認欲求によって生み出されていると思うのです。

そして、そのイライラが次のイライライライラを生み出し、
そのイライライライラが次のイライライライライライラ
を生み出す、いわば、自家発電的にイライラが増幅され、
再生産されるという、
負のサイクルに陥ってしまっているのですね。

更に、この葛藤が近視眼的に進むと、
「自分の正当性を探し出す(言い訳)」
「逆に相手を誹謗する(攻撃)」という危険な方向に
思考が働いていくのかもしれません。

ちなみに、その方からは、後日ちゃんとお返事がありました。
そして、私の一人よがりの顛末を正直に話す中で、
そんな自分の心の在り様を書き換えるための
ご指導までしていただきました。

その方は私が尊敬するメンターで、
今でも様々な学びをいただいております。

さて、話を戻します。

では、このような不安のサイクルから
脱するにはどうすればよいか。

アドラー的な言い方をすると

「他者の評価を気にかけない。
他から嫌われることを怖れない。
承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、
自らの自由な生き方を貫くことはできない。」

という思いを持って行動することなのかもしれません。

でも、それが簡単にできれば苦労はしませんね。

わたしは、朝ジョグしながら、3つの事を考えていました。

【その1 自分を俯瞰する】

自分の顔を鏡に近づけて見るほどに、
自分の全体像が見えなくなります。

むしろ毛穴や皺などの醜い部分にばかり
意識がフォーカスされてしまいます。

すると自己嫌悪のネガティブサイクルが始まるのです。

自分を見るには、鏡から距離を置いて
我が身を俯瞰すべきですね。

つまり、欲求過剰になって妄想をいだいている
自分に気づいてくれる、
「もう一人の冷静な自分」を心に棲ませておくことが
必要なのではないかと思います。

そうやって、承認欲求を、
自己のアンダーコントロールに置いておくのです。

【その2 「他者の鏡」の存在】

でも一人で、自分を俯瞰するのは
なかなか難しいですね。

そこで、冷静に自分を評価してくれる
他者の存在がとても大きいのではないでしょうか。

よい仲間に恵まれ、よい人間関係があれば、
承認欲求のマグマを沈めてくれるかもしれません。

【その3 リスペクトする人をつくる】

承認欲求は、他者との相対化によって引き起こされます。

例えば、自分を卑下するとか、優越感にひたるとかは、
他者と引き比べることによって起きます。

そのように自分の評判を
他者との比較で決めてしまうことをやめて、
そのかわりに、
「ああこの人にはかなわない」
ということを素直に受け入れ、
その人に惚れ込んだり、リスペクトできる人間を見つけ、
その人のファンになること。

それも承認欲求のサイクルからフリーになる
一つの手かもしれません。

私は結構この傾向があります。


まあ、その2とその3によって、
その1に到達することが一つの目標かなと思います。

つまり自分の中に眠っていた一つの真理を、
他者の適切な支援によって見つけることで
自分のマインドセットが変わってゆくというイメージです。

心理学者でも、カウンセラーでもない
私の駄文ではありますが、

でも、頭に今ぐるぐる思いが巡っている内に、
もうちょっと承認欲求について、
思いつくままに少し書き記しておきます。

<フェイスブックの「いいね」>

正直「いいね」がいっぱいくると嬉しいですよね。

なぜなら、自分に賛同してくれる人がこんなにもいること、
つまり承認欲求が一時的に満たされるからです。

でも「いいね」欲しさに記事を書いたり、
「いいね」が少ないと不安がかきたてられたり、
「なぜあの人は最近いいねをくれなくなったんだろう」と、
あらぬ妄想にエスカレートしたりとか、
そういう倒錯がおきないように
気をつけなければいけません。

「いいね」はされるより、する側にまわる方が
健康ではないかと私は思っています。

そういう意味で、フェイスブックの「いいね」は
まさに承認欲求の水源地なのかもしれません。

PCゲームと承認欲求

PCのゲーム(ソリティアなど一人遊び系)を
何気なくやってしまう背景には、
承認欲求があるのではないかと思いました。

昔は、ゲームを、
「トライ&エラーを繰り返し、成功体験を積む訓練」
などとポジティブに考えたこともありました。

でもこれって、自分がのめり込むことの言い訳ですね。

今はそれより、PCゲームは、それをクリアすることで、
承認欲求を安直に満たそうとするもの、と考えています。

つまり、「パソコン君」に
安直に承認してもらうということ。

これが高じると欲求過剰や、
インスタントに他者に承認を求める、
承認ジプシーになっちゃうのではないかと思うこの頃です。

<怒りと欲求承認>

また、自分が他者に向ける「怒り」についても
「不安」と同様のことが言えると思います。

ある人の理不尽な行為、言動に対し、
それを他者に説明し共感を求めることなどは、
自分の正当性を担保しようとする、
ある種の承認欲求ではないかと思われます。

また、なぜ彼はこんなことをするのかと、
怒りが怒りを生み出す自家発電モードになるのも
承認欲求といえるかもしれません。

なぜなら、その時、心の奥底には、
「改心して欲しい」「こうあるべき」
「本当はわかり合いたい」などの
過剰な期待や要求が潜んでいて、
それがかなわないから自分劇場の
「怒り」のサイクルに陥ると思うからなのです。

<足し算ではなく引き算で>

承認欲求とは、今の心の欠乏を満たそうと、
そこに何かを埋めること、
貪欲に何かを求めることではありません。

そうすると、ネガティブサイクルに陥るのです。
そうではなく、心の中によどんでいる
負の細胞を浄化させること、
取り除くことではないかと思うのです。

つまり、必要なのは、足し算ではなく
引き算の心持ちではないかと思うのです。

長文お付き合いいただきありがとうございました。


 

「カイロス的時間感覚で自分へのメッセージ」

生徒会誌「桜雲」が発行されました。

桜雲2017-01

今回のテーマは「飛躍」(Fly to the Future)。

いやあ、とっても素晴らしいです。
作成した人自身が楽しんでいることが
伝わる内容です。

よい本ができるためにはそれが一番ですね。

知らないうちに私のイラストが使われていました!

桜雲2017-02

桜雲2017-03

ところで、殆どの生徒会誌は、
最後に生徒一人一人の
一言メッセージが書かれています。

もちろん「桜雲」もそうなのですが、
でも「桜雲」の場合は、
ただの自由記述ではなく、
テーマが設定されています。

今回は全体テーマ「飛躍」にあわせて

「『高校卒業後、新生活に向けて
飛躍しようとしているあなた自身』
に向けたメッセージ」


となっています。

例えばこんな記述があります。

「拝啓 未来の私。
明日に向かって生きていますか?
愛に向かって生きていますか?」

「今の私より、充実した大学生活を
おくれていますか。
大好きな憧れの方たちに近づいていますか」


などなど。

さてさて、そんな生徒達の、
未来の自分への一言を
楽しく読んでいて感じたことがあったので、
それをちょっと書いてみたいと思います。

3月のこの時期は、卒業式にあわせて、
生徒会誌だけでなく、
たくさんの会誌や会報が出されます。

本校でも、PTA会報、同窓会報、図書館だより、
学校新聞等々次々発行されています。

これらに書かれている
多くの文章に共通する点は、

「未来のあなた」「未来の自分」

へのメッセージであることです。

つまり、その原稿を書いた時点の思いを、
それを読む未来の誰か(自分も含めて)に向けて
発信しているわけです。

そして、時を経て、その未来が現在になり、
そのメッセージを読み返すことで、
それは、過去の誰かから現在の
誰かへ向けたメッセージとなるわけですね。

つまり、メッセージのベクトルは、
現在→未来、過去→現在という、
過去から現在を経て未来に向かうという
一定方向に向かっています。

それは、我々が常識として疑うことなく
身につけている「クロノス的時間」の
概念に則っています。

普通は、そのベクトルに逆行した
メッセージはあまり行いませんよね。

例えば、

過去の自分に今の自分がメッセージする、
未来の自分から現在の自分に
メッセージがおくられる、なんてことは。

だって、過去の自分に
今の自分がメッセージしたとしても、
過去を変えることはできないし、

未来の自分からメッセージが来るなんて
SFのようなことはありえない、と。

でも、我々は、「クロノス的」時間だけではなく
「カイロス的時間」という
もう一つの時間感覚を持っています。

それは人間の意識が生み出す内的な時間です。

映画を観たり、小説を読んだりするとき、
頭に流れている時間感覚は
「カイロス的」時間ではないでしょうか。

カイロス的時間はその速度も方向も
一定ではありません。

過去・現在・未来が同時に存在したり、
未来から過去に逆行することもあります。

実は私は今、そんなカイロス的時間感覚に立って、
過去の自分へ今の自分がメッセージをおくる
という実践をしています。

私が最近行っている数学の出前授業でも
授業の振り返りとして
過去の自分にメッセージをおくるという
リフレクションシートを使っています。

例えば、昨年末に沖縄で行った
数学の授業での振返りシートはこんなカンジです。


リフレクションシート01


佐藤由美子さんという方の
「うまくいきそうでいかない理由」という本に、
「過去へのメッセージ」についての話がかかれています。

実は、現在私は、畠山さゆり先生という方に
体質改善のご指導をいただいているのですが、
さゆり先生のプログラムに、
佐藤由美子さんの「過去へのメッセージ」の手法が
取り入れられています。

お二人は懇意にされていて、
もちろん、さゆり先生のプログラムにこの手法を
取り入れることは了解済です。

その具体的な内容は、モニターなので
詳しくはあかせませんが、
学校教育にもとりいれらるヒントがたくさん潜んでいる
奥深いテーマであることを感じています。

私が現在感じているのは、個人だけではなく
組織のマネジメントにも
この手法が使えるのではないかということです。

今本校は「花高活性化プロジェクト」という
カリキュラムマネジメントを
全職員で行っていますが、
学校経営を考えるときに必要なのは
このような視点でないかと、
畠山さゆり先生の言葉や、
佐藤さんの本を読んで、膝を打ったのです。

現在の学校の姿は、
これまでのあらゆることを含めての
「過去からの贈り物」であるという視点に立つこと。

そして、現状の課題や、
環境に引きずられるのではなく、
理想の未来をイメージして、
その前提となる現在をどう生きるかを
前向きに考えることが求められるのではないか。

そのように感度を磨くことで、
環境の見え方が変わってくるのではないか。

うーん。言語化難しいっす。

でも、大切なことは、
底流をなすのは
ポジティブマインドではないかなあと思うのです。


 

「第3回アクティブラーニング研修会」

一昨日の金曜日、

第3回花巻北高校社会科アクティブラーニング研修会

が行われました。

内々での研修会でしたが、
FBや、溝上先生が行っているTulipという
メーリングリストにドロップしたところ、
本校職員の他に、
青森県の総合教育センター、百石高校、
仙台の聖ドミニコ学院高校(2名)、
沼宮内高校、宮古高校、盛岡三高(2名)、
警察学校(←彼は主催者ですが)
からも参加をいただき、
充実した研修会を行うことができました。

以下、簡単に授業の紹介をします。

【日本史・助川先生】

● 日中戦争とはどのような戦争であったか

4人グループをつくり、
盧溝橋事件についての記述が書かれている、
4種類のプリントABCDをそれぞれに配ります。

まず各自が読み取り、その後、4人が、
それぞれが所有する知識を交換しあい、要約し、
一つの成果物を作成します。

いわゆるエキスパート・ジグソー
という手法ですね。

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助川先生は、まとめのガイドとして

「事件の概要」と「事件以後の経過」という
2つの視点でまとめるようなテキストを作っていました。

余談ですが、
このようなまとめ方を私は、
「静的」と「動的」、「地図」と「コンパス」
「関数の値f(x)」と「関数の微分係数f'(x)」
などと秘かに呼んでいます。
研究協議でその話を少しだけしました。

さて、グループでのまとめを、
2つの班が発表し、全体にシェアします。

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その後、教師によるまとめを経て、

「日中戦争はどのようにすれば止められたか」
など3つの問に向かわせていきます。

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とかく、このような、

「個による読み取り→グループでの要約化」

という授業では、説明する者の表層的な
パフォーマンスばかりがクローズアップされ、
教室が騒がしくなる傾向があります。

そして、それは往々にして「AL的活性化」
とポジティブに評価されがちです。

でも、その「心地よいにぎやかさ」に騙されて、
「生徒が主体的だ、良かった、めでたし」
で片づけられ、深い学びに到達されないような
授業もしばしば目にします。

しかし、本時では、発信する側の
静かで自然な語りと、
受け取る側の真摯に傾聴する姿が
とても印象的であり、
更にそこに教師が適切に介入することで
深い学びに向かっていく様子を
感じ取ることができました。

これは、本時が、特別に企画された
スペシャルなものではなく、
普段通りの展開だったからこそ、
このような自然な対話が生まれていると感じました。

因みに、このABCDのテキストの出典は、

A=世界史Aの教科書
B=B社の日本史Aの教科書(本校使用)
C=C社の日本史Aの教科書
D=D社の日本史Aの教科書

であることが授業の最後に明かされました。

すると、生徒たちの間にざわめきが起こりました。

盧溝橋事件という歴史的な事実は
動かすことができない確固としたものですが、
出版社によって表現の仕方がだいぶ異なることに
生徒は驚きを感じたようです。

助川先生は、研究協議の中で、
このときの生徒の「ざわめき」に
彼らの中にある知的好奇心をみた、
と述べていました。

ここから、出版社のポリシーを鳥瞰することや、
世界史と日本史のクロスカリキュラムなど、
新たな問題意識に繋がっていけば
面白いかもしれませんね。

【現代社会・泉先生】

●世論形成と政治参加

授業のテーマは

「映画で学ぶアメリカ史
(歴史的大行進は何のために行われたのか)」

ですが、いわゆる「主権者教育」として
位置付けられるものです。

冒頭の15分で、キング牧師の指揮による
公民権運動のデモ中に起こった
「血の日曜日事件」を題材にした映画
「グローリー~明日への行進~」の
イントロダクションを視聴します。

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視聴後、ワークシートを用いて、
個のまとめを経てグループで考えを共有していきます。

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その後泉先生は、
映画のシーンをピックアップしながら

「セルマでの行進にはどのような理由があったのか」

「なぜ有権者登録率が低かったのか」


という2つの問いを立てて、
グループ内でのディスカッションを促します。

グループ内の意見をホワイトボードにまとめた後、
次はワールドカフェの手法により、
グループ間のシェアにより知識の構成に向かいます。

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最後に各グループの成果物としてまとめられた
ホワイトボードを眺めながら、先生が講評を行い、
生徒に問いを投げかけ、
リフレクションシートを記入させ終了しました。

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この授業の良さをまとめておきます。

①映像の視聴、スライドの提示など、
 AV・ICTの利用によって興味を喚起し
 理解を促進させようとしている

②同様に、ワークシート、ホワイトボードなどによって、
 学びがスムーズに展開できるような工夫がなされている

③考えを深めるために「オープンな問い」を準備している

④個によるまとめからグループでのディスカッション、
 更にそれを踏まえてワールドカフェによる
 グループ間のシェアというような知識構成に向かう
 展開が行われている

様々な活動が仕掛けられた「これぞAL」
とでも言うべき、非常にチャレンジングな授業でした。

「主権者教育」の一つのスタンダードナンバーとして、
多くの先生に継承して欲しい
モデル授業だったと思います。

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図書課のT先生が、教室の前に、主権者教育に関わる図書をディスプレイしていました。いい連携ですね

研究協議で泉先生から
この授業は「主権者教育」という位置づけだけれど、
「投票に行こう」という言葉を
敢えて封印したと話していました。

私はそこに共感するとともに、
彼の教師としての矜持を感じました。

この主権者教育との関わりについては
私も一つの意見を持っています。

それを記すと長くなりそうなので、またの機会に。

研究協議は、ありがちな
「あたりさわりのない感想の言い合いでお茶を濁す」
という予定調和なものではなく、
教科内容の面と、指導法の両面において
非常に深いレベルでのディスカッションが行われました。

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今回の他校から参加された先生方の多くは、
年休をとって自腹で来ていました。

それだけ意識の高い方々が集まったことが、
このような活発な研究協議につながったのだと思います。

協議の最後に私から今日の授業で感じたことについて
紙板書(KP法)によってお話をさせていただきました。

短時間だったので、
思うままに紙板書メモをつくりながら、
急いで話したため、
思いが伝わらなかった部分も多かったと思います。

そこで、少し整理したものを以下にまとめておきます。

3つのことをお話しました。

一つは、助川先生の授業から感じた「サマライズ(要約)」のポイント
二つ目は、お二人の授業から感じた「グループシェア」
三つ目は、「学び方を学ぶ」ということです。

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授業者の2人の先生、そして参加された皆さん
ありがとうございました。

なお、終了後の懇親会も大変もりあがりました。


 

「頭の中にジャズが流れまくったた日」

もうだいぶ以前の話になってしまったのですが、
1月22日に、筑波大学に呼ばれて、
哲学カフェに参加しました。

「生きるに価する命とは」

という重たいテーマでした。

そこで私が思ったことや述べたことについては、
また機会を設けてまとめてみたいと思います。

今回は、この哲学カフェが終わって、
東京駅から新幹線に乗るまでの
ほんの数分間に私の頭の中に
起こったことについて語ってみようと思います。


哲学カフェが終わってから、
参加した仲間たち何人かと一緒に、
筑波大文京キャンパスから
東京駅に向かう道すがら、
頭の中でその余韻に浸っていました。

「問い続けることが生きる事」

といったいかにも哲学っぽいまとめに
何か違和感があり、

「じゃあ問い続けない人間は生きていないのかよ」

と思ったり。

でもそのとたん

「そのように思った瞬間、
実は問いを立てているのか」

と反駁したり・・

そうこうしているうちに、

「幸せに生きるとはどういうことか」

という問いが浮かんでいました。

そもそも「幸せ」とは何か、
幸せに生きたいとは
どういう精神状態のことなのか、
それはどんな行動につながるのか、

などといった。

さて、そんなこんなで東京駅に着いたとき、
電車の出発時間の1時間ほど前でした。

皆さんとお別れした後、
その哲学カフェに参加していたSさんが、
夕食をどうですかと誘ってくださったので、
ありがたくご一緒させていただきました。

美味しい料理を堪能しながら、
哲学カフェの振り返りの対話がはずみました。

2人に共通していたテーマは、
やはり「幸せに生きるとは」ということでした。

Sさんはとても顔が広く、
キャリア支援やインストラクショナルデザイン、
コーチングなど、
先端の知見に幅広くアプローチされながら、
自らも大学で研究者として学び続けている方です。

Sさんとのお話はとても盛り上がりました。

選択理論、マインドフルネス、フロー、
ウェルビーイング理論、食からのアプローチ・・・。

私が知らないそんな世界を、
Sさんからもっと伺いたいという気持ちが
湧きおこっていったそのときでした。

ふと時計を見たら、
何と新幹線の発車時間まで
あと10分という状況であることに気づきました。

焦りました。

こりゃ無理かな。
いや無理でしょう。
どうしよっかな。

いい時間が過ごせたから遅れてもいいや。
でもそうなると盛岡からの電車に間に合わないしなあ。

平静を装いながら頭は混乱していました。

そんなときです。

Sさんの行動は神っていました。

私のうっかりが原因なのに、Sさんが
「気づかなかった私の責任」
とおっしゃりながら

電光石火に会計を済まし、
レストランから東京駅までの最短距離
を探索し、改札口まで導いて下さいました。
(途中横断歩道の無謀横断付)

私は、そのテキパキさに驚きながら、
自分のバカさ加減にあきれていたわけですが。

さて、この改札から新幹線乗車までの約5分が、
それはもうスリリングでエキサイティングな旅でした。

キャリーバッグを抱えて
弾丸ライナーのように駅構内をダッシュしながらも、
なぜか頭は冷静でした。

「ああ、Sさんとの会話は『時さえ忘れて』だったなあ」

などと反芻しています。

そして、思わず頭の中で音楽が鳴りだします。

「I Didn't Know What Time It Was」 

これはチャーリーパーカーウィズストリングスのサウンドで。

エスカレーターを駆け上がりながら、今後は
デューク・エリントン楽団の

「Take The “A” Train」  です。

エラ・フィッツェラルドのボーカルが思い出され、
頭の中で歌いだします。

「You must take the "A" train 
To go to Sugar Hill way up in Shiwa Town」
「Hurry, get on, now it’s coming」

なんてね。

すると、何と、出発ギリギリで
列車に飛び乗ることができました~

座席に座った時頭に流れた曲は、やはり

「Just In Time」

これは、酒井俊のボーカルが大好き。


さて、

このドタバタから二つのことがわかりました。

一つは、大ピンチなのに、なぜか頭がスッキリ。
心地よささえあったこと。

絶対間に合うという確信のもとに
行動していたのかもしれません。

そうか。

もしかしたら、これがフローの正体なのではないか!



そしてもう一つのこと。

「生きるに価する命」とか「幸せとは」を考えるとき、
私は、これまでウェルビーイング理論などといった
難しいことを持ち出そうとしていました。

でも結局、わからなかった。

それは、教科書を勉強するように、
短絡的にワンセンテンスの答を
求めていたからではないか。

ところが、私の目の前にいたSさんが
実は答をくれていた!と気がついたのです。

というか、

Sさん自身が答そのものだったのです。

私のために食事をつきあってくださり、
列車に遅れそうな私のために、最善の行動をとり、
そして、自分事のように心配してくださった。

そうやって、目の前の相手のことを
思いやる気持ちを常に持っていることが、
人との良好な関係を保ち、
幸せをつなげ持続させる。

もしかしたらこれこそが
ウェルビーイングなのではないか。

理論を理論として理解するのではなく、
理論はそれを実践するロールモデルによって
初めて理解されるということなんだ。

電車の中でようやくくつろぎながら、
今日は何かとても得難い経験を
したような気持ちになり、
思わず微笑んでしまいました。

駄文にお付き合いくださりありがとうございます。


 

「第3回花高活性化プロジェクト」

先週の話になりますが、
第3回花高活性化プロジェクトが行われました。

第1回の様子はこちら→★★

第2回の様子はこちら→★★



前回の話し合いの結果を、副校長先生が
2つの領域にまとめてくださいました。

第2回のまとめはこちら→★★

一つは、例えば授業時間や
カリキュラム編成などの
フレームについての改善、

もう一つは、指導方法や課題の出し方などの
コンテンツの改善についてです。

今回は、時間の関係もあり、
最初の、フレームについての
具体的改善提案について
グループディスカッションを行いました。

全体で確認したことは、
単に教師の都合で語るのではなく、
学校目標、育てたい生徒像に
照らし合わせて改善提案を行うということです。

最初に私が次のような
「模範演技?」をしました。
(あくまでも一例です)

私の提案は

「朝学習をなくして、瞑想、マインドフルネスを行う」

というものです。
生徒の心のケアが必要であることを感じ
この導入を考えてみました。

また教員も多忙で疲弊していることもあろうと思い、
先生方も生徒と一緒に瞑想します。

これを習慣化することで、
授業への活力が生まれるのではないか
と期待しています。


ま、スルーされましたけれどね。

先生方からは、60分授業の是非について、
多くの意見が出されました。

時間がなく、次回持ち越しになりましたが、
今回も非常に有意義なディスカッションが
できたのではないかと思います。

活性化第3回01LT


今回のまとめとして最後に
述べたことを記しておきます。


「学習指導要領の遵守」と
「センター試験への対応」のダブルバインドが
大きく横たわっているなあと感じました。

それがボトルネックになって、
我々の発想の自由度を
狭めているのかもしれません。

しかし、だからといって、
生徒に時間を返すこと、主体性を育てること、
心のケアをすることを見失ってはいけない。

やはり、我々は、育てたい生徒像から
出発していくべきではないでしょうか。

また、家庭のニーズに応えることは大事だけれど、
何もかも学校が行うというスタンスでは、
家庭との良好なパートナーシップが構築されません。

共に教育を語りあえるよう家庭への働きかけも必要。
そのための工夫、アイデアを模索していきましょう。


活性化第3回02LT