欲望のメミーシス

最近、フェイスブックで
「数学の学び」に関して
いくつかのやりとりがありました。

https://www.facebook.com/hisao.shimomachi

その中で、私が敬愛する哲学者の
さっちゃんこと五十嵐先生が
こんな発言をされました。

私が数学が大好きになったのも、
高校の時の数学の先生が、
ただただ数学が大好きで、
高校生に教える数学でさえ、
「数学に触れていることの幸せ」
が輝き出ていたからでした。

相当前に退職したあとで講師として
教えてくれていた
おじいちゃん先生でしたが、
本当に「輝いて」いたんですよね。

いま思うと教え方とか
「なんなの⁉」って感じで、
みんなは「わかんない、難しい」って
ブーブー言ってましたが、
私はその先生の「輝き」に
すっかりやられて
感染しちゃいました( ̄▽ ̄)。

学問って本当に「喜び」なんですよね。


これはまさに、学びの本質を突く
話ではないかと思いました。

以前、私が教育委員会に勤めていた2年間、
「すうがく通信」という名の通信を、
県内の高校の数学科教員全員に
メール配信していました。

それは、実践や数学のトピックスを
紹介するだけではなく、
教師のマインドセットを変えること、
教員どうしが交流しあう文化をつくりたい
という意図をもって始めたものでした。

下図は、80号まで発行した、
その通信をダイジェスト版にして、
県内の各校に配布した冊子の表紙です。

数学通信ダイジェスト


この「すうがく通信」のある号で、
高橋勝氏(横浜国立大学人間科学部教授)の
次のような文を紹介したことがあります。

少し長くなりますが以下に紹介します。


<前略>
<教師-生徒>関係というと、
戦後の教育界に深く刷り込まれた
二項対立図式が思い出される。
それは、学校の授業における教師中心か、
子供中心かという対立図式である。
この図式は、教育内容を系統的に教えるのか、
それとも子供の生活実態に基づく
問題解決学習が大切なのか、
という議論に色濃く反映している。

<中略>

しかし、<教師―生徒>関係を
<教師>軸と、<生徒>軸という
二極図式でしか理解できなかったところに、
これまでの教育関係論の
狭さがあったと考えられる。

教師の役割は子供に知識・技能を
きちんと伝えるところにあるとか、
子どもは教師の指導なしでも学習できる
といった議論は、
近代哲学における主観・客観の対立図式の
反映でもあるからである。

フランスの哲学者ジラール(1923~)は、
『暴力と聖なるもの』の中で、
欲望とは、主体Aの内部で
自然発生的に生じるのではなく、
主体Aが、惹きつけられる身近な他者B
(例えば、男子にとっての父親、
生徒にとっての教師、
自己にとっての競争相手)
が対象Cを欲望するが故に、
対象Cを欲するようになるという
「隠された三項関係」の構造を
明らかにしている。

ジラールのこの
「欲望のメミーシス(模倣)」論は、
生徒の学びの深層を理解する上で
実に貴重なヒントを与えてくれる。

通常は教師が提示する知識を
学ぶと考えられているが、
実際はそう単純なものではない。
学びとは、宅配便を受け取るのとは
まるで異なるからだ。
それは、むしろ身近な他者との
共犯関係において開かれたり、
閉じられたりしていくものだからである。

ジラールに従えば、生徒にとって教師とは、
知識への挑発者として目に映るのであって、
知識の所有者、例えば学者と同じではない。

子どもの目の前にいる教師は、
知への欲望にかられていて、
それに夢中になり、その欲望のオーラを
有形無形の形で生徒に見せ付ける存在である。

子どもは、教師の所有する知識にではなく、
彼/彼女が抱く欲望とその言動に滲み出る
情熱に惹かれるのである。

教師の知識に惹かれるのではなく、
教師の「知への欲望」に惹かれるのである。

<中略>

ここでは、主体A(生徒)から
対象C(新しい世界)へという
単純な二項関係ではなく、
主体A(生徒)→挑発者B(教師)
→対象C(新しい世界)
という三項トライアングルが成立する。

生徒はたった一人では、
新しい世界に分け入ることはできない。
その根源的欲望を刺激する
教師という存在が不可欠なのだ。
模倣者(生徒)は、手本(教師)の行為を
模倣するのではなく、
手本が欲望する世界に憧れて、
それを欲望するようになる。
いわば「あこがれにあこがれる」のである。

<中略>

こう考えてくると、教師中心か、
子どもの活動中心か、
といった従来の教育学の不毛さが見えてくる。
「自由か指導か」といった意識レベルだけでは、
ジラールの着目した「隠された三角形」の
深みをとらえきることは
とうてい不可能だからである。

生徒は教師の「あこがれにあこがれる」
と同時に、知への欲望に欠けた教師の
惰性的な授業やその振る舞いをも
無意識のうちに模倣し、内面化する。

歴史は暗記物だと思っている
教師の授業を通して、
歴史は暗記物であることを生徒は内面化する。
未知の世界を探求する喜びよりも、
試験の点数がすべてだと
内心思っている教師の授業を通して、
点数こそがすべてだとする
貧しい学びの観念を植えつけられるのである。

ジラールの欲望のメミーシス論を踏まえるならば、
教師に求められるのは
知識や技能そのものではない。
知識や技能に心底憧れる欲望(エロス)を
持ち続けているか否か
という点こそが決定的なのである。

「教師―生徒関係論」
「最新教育キーワード第13版」
/時事通信社より抜粋



私はここで述べていることに
激しく同意するのですが、
このような論を知ると、
アクティブラーニングの研究に走ることに、
一種の空しさを覚えてしまう人も
いるかもしれません。

ですが、私はここで一つ
力説してきたいことがあります。

それは、今、私の周りにいる、
アクティブラーニングをやろうとしている人、
あるいは、そのような学びのエキスパート
といえる人たちの
授業改革への思いに関することです。

彼らが、新しい学びを模索し、
実践しているのは、
単に学習定着率を高めるために
自分の授業をブラッシュアップしているのではなく、
現在の教育に横たわる問題を
改善しようという熱い思いに
駆り立てられているからではないかと思えるのです。

それは、
学校を安全・安心な場にすることであったり、
社会と学校を結びつける試みだったり、
偏差値という一元的な価値観の呪縛を
打破しようとしたり・・・。

そんな彼らの貪欲な授業改革への思いが、
生徒から支持され、
学習効果にも現れていくのではないか。

アクティブラーニング型授業という
スペシャルな手法によって
効果がもたらされるだけでなく、
その教師の
「今の学校、今の授業をどげんかせんといかん」
というマインドセット、心意気が、生徒のハートに
火をつけているからではないか。

つまり、ジラールの「欲望のメミーシス論」は、
教科内容だけでなく、
授業改善への思いにも
及ぼされるものではないかと思うのです。


 

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2015/ 10/ 14( 水) 22: 51: 33| | # [ 編集 ]
 

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