障碍・高齢化問題と学校存続問題

一昨日、養護老人施設の下道さんが来校し、
デンマークにおける福祉教育の話や、
大野という地域におけるCCRC
(Continuing Care Retirement Community:
高齢者居住コミュニティ)、
そして、大野高校との連携
についての話を深めました。

実は今、久慈平荘と大野高校が連携し、
来年度から新たな科目を設定しようと
画策しています。
まだハードルはあるのですが、
着実に前進しています。

8月に京都精華大の
筒井先生が訪問されたときも、
久慈平荘にご案内し施設見学をしながら、
非常に有意義なディスカッションを行いました。

そのとき思ったことは、
大野高校の統廃合問題を考えることは、
大野の地域創生を考えることである、
ということです。

更にいうと、もっと大きな視点で、
日本の高齢化や障碍の問題を
考えることとも等価であると感じたものです。

この半年、統廃合に向き合い、
様々なことを考えてきました。

最初は、自分の勤める学校の存続という
ローカルな視点でしか考えていませんでした。

どうすれば生き残れるか、
どういう戦術で行政にどうアピールしようか、
などと。

しかし、そういう視点だけでは、
ちっとも前に進まないことが見えてきました。

つまり、そのような視野狭窄は、
学校エゴ、当局への不満といったものしか
生み出さないと感じたからです。

大野高校の存続は、
地域創生と不可分一体であるとの考えに立って、
地域の実態や子供の未来を見つめたとき、
実はそこに、日本が将来直面する、
人口減少社会、高齢化社会に対して、
すべての日本人が思いをはせて
いかなければならない問題が
横たわっていることに気づきました。

だから、統廃合問題、存続問題を考えることは、
子どもや地域の未来を、
多くの立場の人が叡智を結集することであると、
今はそういうポジティブなスタンスで
臨もうと思っています。

そうすることで、実は、
新しい学習の在り方、
ALとは何か、
未来を担う教師のマインドセット
など、新たな側面が
語られだすことにもなるのです。

それは、教育屋として持つべき見識であるし、
だからこそ、存続問題に直面している
当事者だけではなく、
すべての学校で考えていかなければならない
「パワフルな問い」でもあるはずです。


先日、特定非営利活動法人
里・ つむぎ八幡平の理事長で、
同窓生仲間でもある高橋和人さんが
FBで紹介された、
貞末麻哉子さんの「知ることの意味」
を読み衝撃を受けました。

貞末さんは、マザーバードという
グループの代表で、
障碍問題など社会性の高いテーマの
記録映像を発信し、
問題提起をされている方です。

少し長いのですが、引用させていただきます。

<前略>  
多くの方は「障がいのある方が抱える問題」を
自分の問題として捉えることが難しいだろう。
わたしも若い頃はそうだった。
気の毒だと思う気持ちが先に立って、
我が身の問題として考えることは出来ていなかった。

知ろうとしない、
知ろうと思っても知る機会が少ない、
知ることが怖い、知ったところでその意味は?
など、さまざまな気持ちの連鎖の中で、
知ることを避けていたかも知れない。

多くは最初に書いた「気の毒だと思う」
感情にも振り回される。

小さい頃、身体の不自由な方を見ると
「ジロジロみちゃいけません」と窘められる、
そんな体験を誰でもがしているだろう。
それが障がいのある人への
礼節とも教えられてきた。
それは障がいを「気の毒だ」
と思う気持ちが生んだひとつの弊害だ。

そして、誰もが、やがて我が身で
「障がい」と関わるようになる
ある人は老いて。ある人は病気や事故で。
ある人は障がい児を得て。
当事者として、または家族の問題として
背負うことになる。誰もがなる。

その時に、知ろうとしなかった自分を後悔する。
世の中の問題はすべてにおいてそれが通じる。
どうしたら他人の問題を
自分のことに置き換えて考えることができるのか・・・。


想像力がそれを助ける。

その想像力を膨らませるのが、
表現者の役割のひとつでもあると思う。
そして伝え続けることが大切だと思う。

わたしはこの10年、
多くは人生が「障がい」に関わる方々を
題材に映像作品を制作させてもらった。
そのきっかけになったのは、
障がいに関わる方々が決して
「気の毒ではない」と感じたからだ。

いや、むしろ自らの前にある
生きづらさに直面してきたことで、
強くなり、さらに人生を豊かに歩むことを
得た人たちに出会ったからだ。


そして、この人たちが決して
「気の毒であってはならない」と思ったからだ。
 
目先の利益に溺れ、
誤った判断をするのが人間だとすれば、
今の社会はとんでもなく歪んだ利益に
溺れかけている。

利益のために、生命を軽視し、
一部の生き残りしか考えていない。

当然のことながら「気の毒」と判断した弱者から、
真綿でくるむように阻害し、排斥し、
最後は除外する。


福祉は「生かさず、殺さず」。
それを率先する人たちは、
やがてそれが自らにも降って湧く
「天に向かって吐いている唾」
だということを知らない。

いや、知っていても知らないふりをしている。
なぜなら「ただちに問題がない」からだ。

わたしたちは、「ただちに問題がない」問題を避け、
未来にツケを残して生きようとする
貧しい生き方を強いられている。


さて、障がいに関わる人たちが、何と闘い、
どうやって強くなり、
障がいと共に人生を豊かに歩むことを得たか。
ここがポイント。

それは、障がいによって
「人権」のほんとうの意味を知る作業から始まる。
そして「人権」を尊重し、
「人権」が守られることこそ、人が「生きる」という、
もっとも基本的な人間の営みの核であることを知る。
血を吐くような痛みの中から、
「生きる」ということの
ほんとうの強さと美しさと尊さを学びとる。

それは、障がいがあろうが健常な人だろうが、
誰もが、人として生きてゆく上で
知り学んでおくとよいことだ。

必ずや、学びを得た人たちの言葉は、
多くの健常な子の子育てにも通ずる。
そして、家族の愛と絆を強くすることにも通ずる。

学ぼうとせずに目を背け、
自らを健常だと思いこんでいる人にこそ、
知ってほしい。学んでほしい。
<以下略>



この力強いメッセージに心が打たれました。
そして、人口減少、高齢化による
学校存続問題や、それに伴う
教育の転換の問題にも
同じような構造があると感じるのです。

更に、貞末さんは、
重度の脳性麻痺で生まれ、15歳で亡くなった
山田康文さんの詩を紹介しながら、
最後はこのように結んでいます。

いま、障害者の問題は、
高齢者の方たちの問題でもあります。
『老いる』というのは、
障害が先送りされているということ。
歳をとると、足腰が不自由になって
車椅子が必要になったり、知的障害になったり・・・

健常者の方も、たいていはいつか
障害者になるんですよ。

だから康文くんたちは私たちの先輩。

世の中をより良くするよう切り開いてきた、
パイオニアなんです」
と・・・


大野高校も、未来の教育を提示する
パイオニアでありたい。



 

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