アクティブラーニング推進にあたって思うこと

私は、FB上の「反転授業の研究」
というグループに属していて、
いろいろと勉強させていただいております。

そのグループに「後押しシステム」という
グランドルールがあって、
私が何か語らなければならなくなったので、
アクティブラーニング(以下AL)について
最近考えていることについて述べました。

少し長いのですが、以下このブログにも
記しておきたいと思います。


私はALの推進者と見られていて、
あちこちからALの推進について
話して欲しいというオファーを受けます。
でも最近、私が話すことは、
むしろALが内包している危うさ
みたいなものが多くなっています。

現在多くの学校現場では、プリント学習や、
家庭学習と連動する課題など、
授業が、テストへの周到な対策となるような
「戦略的なアプローチ」(Entwistle,松下,2015)
を行う「真面目な」教師が多く、
生徒は、このようなアプローチに
従順に寄りかかることで、
テストを乗り越えることができるため、
教師も生徒もALのような授業に
関心を示さないという傾向があると思います。

また、従来の授業スタイルを変えたくない
という教師の思いと、
最小限の労力でテストをクリアしたい
という生徒の「浅いアプローチ」への欲求の、
両者のネガティブな方向での利害の一致
によって支えられるような
「浅い・戦略的なアプローチ」
による学習形態が多いのも現状です。

このような中で、ALの推進が前のめりで、
「上から」進められていくと、
「戦略的アプローチ」に傾倒した、
「にわかAL推進者」の出現が予想されます。
「生徒の学びは教師が教えたこと
以上でも以下でもない」
「すべての学びは教師の掌の上で起こす」
という考え方から、
過剰にコントロールされたグループ学習や、
生徒の活動より教師の巧みな話術や
誘導にスポットライトが当たるような、
「お手盛りのAL」が横行するかもしれません。

そういう授業の中で、我々は、
批判力を持ち、政治への参加を意識するような
次世代を育てていけるでしょうか。

私の立ち位置は、AL推進の気運を捉えて、
教え込みの授業や、
その指導者の中にある価値観を変えること、
そして、自分の言葉で考え、
発信できるような賢い市民たる生徒を
育てるような教育の見直しを行いたい
というものです(壮大ですね)。

だから、私は、ALの推進と同時に、
授業パラダイムから
学習パラダイムに向かうための、
ティーチャーからクリエイターとしての
教師力の向上(アクティブティーチング)を
進めていかなければならないと考えます。

私は以前、教育委員会への赴任が
あまりに突然決まったときの新任の挨拶で
「組織に批判的なステイクホルダーを
内側に取り込むことによって、
自分たちの取組みの正当性を担保する。
そんな新自由主義的手法により
私が赴任したのではないか」といって、
場内をシラケさせたことがありました(笑)。

それならそれで、思ったことを自由に
素直にやろうとポジティブに行動してみたら、
いろんなことが実現できて
うまくまわったような気がします。

私のALの推進は、
文科の錦の御旗を振るのではなく、
それをうまく利用させてもらいつつ、
ここに集まっている方々のような、
私が「本物」と信じる人たちの
実践や理念を学びながら、ぶれずに
教育現場を変えていきたいということです。

国が積極的に推し進めようとしている
ALにしろ道徳教育にしろ、
そこに潜む隠れたイデオロギーや、
経済原則等の善悪を見極め、
正すことももちろん必要かと思います。

でも、それをどんなに批判する
言葉を持っていたとしても、
目の前にいる生徒の今を
どうしたらハッピーにできるか、
成長させることができるかという視点で
行動することが、
私の動かすことができないポリシーです。

私の勤務する学校は、山村の小規模校です。
学校存続をかけて、
今、様々な仕掛けを行っています。

先日、筑波大との哲学カフェや、
大人とのトークセッションなどを実施しました。
生徒達の話を聞く中で、
私は、彼らの話す言葉から
「学校の規則」や「先生の言うこと」は、
疑いなく守るべきものという考えが、
小学校からの学校教育の中で叩き込まれていて、
それが多少なりとも彼らの人生を
決定する要因になっていると感じました。

生徒は、文武両道、勉強と部活を頑張る、
提出物を出す、決まりを守る、
などということを言います。

でも、18歳選挙問題や、集団的自衛権、
大野の高齢化問題などについては、
自分の意見を主張できませんでした。

もしかしたら教師から与えられるまで
考えを保留しているのかもしれません。

それは、学校教育が、自分で考えず、
常に人に迎合するような
人生を与えるシステムとして
作用しているのではないか
と考えこんでしまいました。

都会の、ある程度裕福な
家庭環境にある学校では、
かなり進んだALが展開されている
ことはわかります。

前任校の盛岡三高でも、
生徒が本音をぶつけ合う
トークセッションを行ってきました。

そんな中、私は、
ハイパーメリトクラシー(本田,2005)
という言葉が頭をよぎります。

だからこそ、本校のような学校でこそ、
意図的に、組織的にALを仕組んでいく
ことの必要性を感じます。

私は、ALと同様、
国が積極的にすすめようとしている
道徳の授業は、
今の教師の教え込みの授業の
問題点をあぶり出すリトマス紙
のようなものではないかと思っています。

つまり、上に挙げたような生徒を前に、
「道徳」を避けるのではなく、
「道徳」の授業をむしろ積極的に、
ラディカルに進めていくことで、
教師―生徒関係の見直しや、
授業という空間を反省と脱構築という場に
転換させることで(五十嵐,2015)、
ALの基盤が構築されるのではないかと思うのです。

【以下ブログからいくつか拾ってみました】


(端末と言う名の存在)

(リベラルアーツ)

(観点別評価・道徳教育)

(純愛ラプソディ)

(羽生選手の演技から)

(参加型授業のスピリッツ)

(アクティブラーニングと参加型授業)

(ハイパーメリトクラシーを乗り越えて)

(一流と三流の違い)

 

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