教育界のロバチェフスキー

先月末、筑波大学から五十嵐先生と
3人の院生を本校に招いて、哲学カフェを行った。

3年生男子5人、女子4人、筑波大の学生3人、
ファシリテーターの五十嵐先生、
そして私も加えてもらい、総勢14人のメンバーである。

実際は3時間で行うのだそうだが、
今回は1時間というショートバージョンで行われた。

最初に一人一人から、自分のニックネームと、
最近感じていること、悩んでいることをひと言ずつ話す。

その中から、ある話題に焦点を当てて、
対話をすすめながら、
意見を紡ぎあげていくという形で進められた。

生徒達の話を聞く中で、私は、彼らの話す言葉には、
ある種の教育的バイアスがかかっているなあ、と感じた。

生徒は、学校で決められている
ルールを守ることは絶対と捉えている。
だから、時に、学校や教師の期待や要求に
過剰適応しようとする。

つまり、「学校の規則」や「先生の言うこと」は、
疑いなく守るべきものという考えが、
小学校からの学校教育の中で叩き込まれていて、
それが多少なりとも彼らの人生を
決定する要因になっているのだ。

そんなこと当たり前だろう、変なこと煽るなよ、
と同僚の教師から怒られそうだ。

でも、私は、まるで数学における公理のように、
疑いなく「学校ルール」「教師の指導」を前提として、
生徒の言動が制約を受けていることに、
あらためて、教育という「装置」の
怖さも実感したのである。


ファシリテーターの五十嵐先生は、
ミッシェルフーコーの言葉を引用し、こんな質問をした。
「監獄、学校、病院」の共通性はなんだろうか。

それは、いずれも、強制的に
権力に従わせるのではなく、
教育、訓練によって、規則に適応的(従順)で
生産性のある人間に作り変えるシステムであること、

そして、そこには、監視の視線や、報償と罰則と、
その基準となる試験という
同一原理が存在する、と補足された。

既に記憶が定かではなくなったが、
この哲学カフェはその後、

●自分が当たり前だと思っている
 常識を疑ってみること。
●学校での規則はどうして生まれたのか、
 それを先生が「守れ」というのをなぜ
 信じるのか考えてみる。
●「守れ」と叫ぶ人は、次にはしばしば
 「黙れ」という言葉も使う。
●自分の心の中から「黙れ」という声が
 発せられるときがあるか、それはどういうときか、
 などに注意しながら、この一週間を過ごしてみる。

などという方向に進んでいったように思う。

さっちゃん(五十嵐先生というと怒られるので^^)は、
最近、慶応大出版会で出されている
「教育と医学」という雑誌に、
コーチングについての興味深い記事を執筆している。
是非一読を進めたい。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~simomac/jissen/igarasi.pdf

さて、私は、この哲学カフェの経験から
次の2つのことに思いを巡らせた。

一つは、道徳教育とアクティブラーニング、
についてである。

今、道徳が高校でも教科化され、
学習指導要領に則り授業が
実施される方向に進められている。

先日、「正しい道徳を教えるためには、教える側が
優れた道徳心を身に付けていることが大事。
教師の指導力と道徳心が問われる」

などという論を聞き、
非常に危ない意見ではないかと、
思わず眉をひそめた。

ここで、もし授業が、優れた教師による
一方通行の知識の伝達の場であり、
そして、生徒が、自ら考えることより、
教師のいうことを疑いなく是として内面化する、
という方向で進められれば、
道徳の授業は一体どんな成果を生み出すのだろう。

「21世紀グローバル社会における新しい道徳」
の授業という視点で考えるとするならば、
生徒の側からのボトムアップ型の「授業ではなく学習」、
もっといえば、今回の哲学カフェのような、
とことん突き詰めて疑うことで批判力を養う場、
といった方向に展開されていけば面白いかもしれない、
と私は思う(まあ物議をかもすでしょうが)。

これが、私が思う、道徳の教科化への
ささやかな抵抗でもある。

ここで、「道徳」を他教科に置き換えて考えてみる。

アクティブラーニングは、フーコーのいう、
学校を、「規則や教師の言動をひたすら内面化した、
従順な人間を造り出す装置」
から転換させる一つの触媒と
見ることができないだろうか。


二つ目は、「LEAFモデルで英語教育を変える」
を提唱され、縦横無尽の活動をされている
江藤由布さんの
「学校にルールがなかったら?
セムラリストの見る夢☆」
の一文である。

<こちらをクリック>

また、数学の話題で恐縮だが
(なにしろ一応数学のブログなので^^)

かつてヒルベルトが著書「幾何学」の中で、
「点・直線・平面」という無定義用語と、
それらを結ぶいくつかの公理によって
幾何学を述べようとしたように、
数学はある公理を前提として
矛盾の無いように完備された世界である。

だから公理には不服申し立てはできない。

そのアナロジーで「授業」を考えてみると、
授業とは、教師・生徒・教科と、
それを結びつける、
いくつかの結合公理によって
知を構築するシステムといえる。

そこでの公理は、
否定してはならないものであろうか。

いや、数学でも、ある公理を否定すること、
あるいは他の公理系を採用することで、
別の数学が生まれることもある。

ユークリッド幾何でいうと、
「ある点を通り、ある直線に平行な直線は
1本しか引けない」
という誰しもが自明と思っていた、
あの平行線の公理(第5公準)に対し、
それを否定することで、
ロバチェフスキーなどは、
新しい「非ユークリッド幾何学」を打ち立てた。

話しを戻そう。江藤さんの、
「セムラリスト・・」を読んで、
まさに非ユークリッド幾何学を打ち立てた
彼らと同じイノベーターとしての
佇まいを感じたのである。

そして、今、彼女は、
「加工されすぎた教育、手取り足取りの教育、
管理型の教育ではなく、人が自律的に学習し、
自らの人生の経営者として
幸せに生きるための学び」について、
高い志を持って、アクションを起こしている。

五十嵐さんも江藤さんも、
いわば、教育界のロバチェフスキー(^^)。
これからも目が離せない。


 

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