自己啓発とキャリア教育

先日の朝5時。ジョギングをしようと外に出たところ、満天の星空であった。この時間にこんなに星が奇麗なのかと驚く。ずうっと夜空を見上げながら走っていた。すると、足元を見ながらとか、「次の電信柱まで」などと思うより、息も切れず、すいすい走っていけることに気づいた。

最近、朝3kmほどのジョギングを日課としていて、こんな私でも、もう1週間も続いている。
ジョギングを始めたきっかけは、自分の生活を一新し、自己改革に踏み出したいと考えたからである。大上段に振りかぶった割に、たかがジョギングかよ、といわれそうだが、そんな小さいことでも継続することに意味があるのだ!と思う
ところで、最近、どこの書店に行っても、自己啓発関係の本が溢れている。そしてそれがまた、
10万部突破などという困った世の中でもある。私はこのような本には手を出さない方だが、一か月ほど前、何を間違ったか、とある本を購入してしまった。それは、死を覚悟することで、自分の生活や性格が変えられるという自己啓発ものだった。魔がさしたとはいえ、大きい字、目立つフォント、演習問題付き、などに目が行って思わず買ってしまった自分を責めた。
いや、特にその本がダメだとか、著者がアカンというつもりはない。ベットに寝そべりながら手っ取り早く自己啓発しようと思っている自分に嫌悪したのである。

死を目前にした人間の心のありようについては、数10年前に「夜と霧」(ヴィクトールフランクル)を読んだ時、思わず居住まいを正し、「これはあとでもう一回読むぞ」と思ったことがあった。あるいは、池田晶子の「人生は愉快だ」を読んで、死ぬことが怖くないと開眼した(つもり)。「薔薇は生きてる」(山川彌千枝)で感じたのは、死を前にした少女の生の強さだ。などなど。本による啓発というものはこのようなものではないか。

自分の行動から敷衍すると、巷にあふれる「~すれば、~が手に入る」「~するだけで幸せになれる」といった啓発本に手を出す人は、その代償として地道な努力を続けることや、強い意志を持つこと、自分の弱さを自覚すること、などはすっとばして、インスタントに幸福や富を手に入れたいというメンタリティを持っているのではないか。
そして、そんな読者に乗っかって、「売れれば勝ちよ」という阿漕な著作も存在する。そんな売り手買い手の低次元での利害の一致が循環して、マーケットが形成されているようにも思える。

実は、告白すると、このブログを含め、私の自己改革プランは、キャリアカウンセラーの工藤倫子さん(OfficeRinko)という方からのアドバイスによる。
工藤倫子さんは、青森に住む普通の二児の母親だったが、ある年一念発起し、東京でキャリアカウンセラーとして独立された。何の後ろ盾もなく、たった一人で、キャリア教育関連事業や女性の自立支援などユニークな活動を次々実行している。これまで行ったキャリア講演会は1000回を超えるという。また、近年は「グローバル人材育成を語る自分がグローバルでなければ」と、ドバイやシンガポール、パリなどでの海外講演も行っている。
私は、昨年度、岩手の大槌高校での倫子さんの被災地講演をお手伝いしたことが縁で、今年の9月には、本校の1年生に「働くこと」についてのキャリア講演を行っていただいた。進学校でのこのようなタイプの講演会は画期的である。そしてまた、その縁で、自己啓発やキャリア教育についてご指導いただいている。

なぜ、彼女は、全国各地の多くの人々から熱い眼差しを受けているのか。それは、彼女自身が、自己啓発や意識改革を自らの生き方で体現し、それを発信し続けていること、そして、1度きりの出会いも大切にし、一隅を照らす草の根活動をされているからだと思う。つまり、彼女の生き方そのものが既に1冊の濃密な自己啓発本であると思うのだ。前にあげた「夜と霧」などの3つの著作も、作者の言葉と生き様とが一体的であるがゆえに感動を覚えるのだと思う。

「キャリアカウンセラー工藤倫子のブログ」は、やさしく包み込むあたたかさ、真髄を突く鋭い言葉、マイノリティを支援する視点に満ちている。また、著書「何ももっていないと思っているあなたに」は、著者の、自分は「これしかできない」という身の丈を知った上で、自分の生き方を見つける過程を、読者をエンカレッジしていく形で書かれている。感動的な書である。

さて、今、学校現場において、「キャリア教育」が恐ろしく脆弱であると思う。その原因は、キャリア教育を語らなければならない教師が、キャリア教育の何たるかを知らないこと、そして、自身の生き方でそれを体現しようとしていないことではないかと思うのだ。
自分のことを棚にあげていうならば、「教科指導のノウハウは持っているが、教育は語れない、語ろうとしない」教師が多いのである。
今(も昔も)、学校現場で行われるキャリア教育は以下のようなものではないだろうか。
●定例に実施するインターンシップという名の職場訪問
●ワンショットサーベイと呼ばれる単発のアンケート調査
●専門学校とタイアップした業者への丸投げ、という形で実施される進路ガイダンス
●ジョブカフェ、卒業生、ビッグネームなどを呼んでの「キャリア講演会」
●進学校では、「キャリア教育=文理選択・学部研究」という視点で、結局予備校講師によるガイダンスや受験指導に転化
 などではないだろうか。このような通り一遍の、ある意味キャリア教育をやったという事実づくりともいえる活動は、いわば安直に、自己啓発本をテキストに自己変革を手に入れようということと構造的に似ている。

繰り返しになるが、キャリア教育を行うことの難しさは、それを語る教師自身が、自身のスキルアップを考えていかなければならないことだと思う。未来の自分自身のために投資すること、身銭を切って自分を高めること。極論かもしれないが、それができない人間はキャリア教育は語れない。

教育現場はある種特殊な空間である。
「教務主任をやらされた」「管理職試験を無理やり受けさせられてさあ」などをエクスキューズにしながら、スキルアップに勤しむことから距離を置く人が多い(自分もまさにそうだった)。
しかし民間ではそうはいかない。職域が変わったならば、それに応じて、身銭を投じてスキルを磨かなければ生活を失ってしまうという危機意識を持っている。
もちろん「民間」と一括りにはできないが、自発的に研修会に出向くことなく、悉皆研修(全員を対象とした指名手配研修)に「いやいやながら」参加するのが関の山である教員世界とは異なる。

教育現場においては、そのような自己啓発に勤しむことを「出世意欲」に置き換えて冷やかに見る人もいる。また、「マネジメント」など民間的発想は教育になじまないという人もいる。それはもしかしたら一面真実かもしれない。
しかし、そういう集団から、激動する国際社会という荒波に生徒を送り出すことができるだろうか。その責任の重さを自覚せずに、出口指導に明け暮れるだけでよいのだろうか。

そういった社会に子供たちを送り出す我々には「働くことの意義」を語ること、そして、自らそれを語れる生き方をしていくことが求められると私は思う。
 それは教師が聖人君子となれ、偉くなれ、ということではない。偉くないくせに教室で君臨する「いばりんぼう将軍」ほどイタイものはない。
我々は、自分が「足りない人間である」という自覚から始まって、それを克服する努力をし続ける姿を生徒に見せることが、キャリア教育を語る資格を得ることではないかと思うのだ。

私は、再び、夜空を見上げてジョギングした朝のことに思いをめぐらせた。
一歩先の足元を見て走ること、少し前にある電信柱を目標に走ること。これを教育にもあてはめると、例えば、明日のテストのための力をつけること、身近な進路目標を持つことなどかもしれない。もちろんそれらには大きな意味がある。
では、壮大な夜空を見て走ることは何にたとえられるだろう。それは、世界の中で自分は何者であるか、今の自分はどう生きるべきか、などを思索すること、激動する社会の現状を見つめ、その中で自分ができることを考える・・・。
それはキャリア教育の視点であるかもしれない。

ときどきシリアスな話をします。長文にお付き合い下さりありがとうございます。

 

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