「死なないでいる理由」(鷲田清一)を読み返して気づいたこと

昨日は数学、今日は化学の、
教育実習生の研究授業がありました。

どちらも、生徒がとっても生き生きと
取り組んでいました。

教育実習生花北02

教育実習生花北01



2人の授業は、これまで見てきた
教育実習生の授業の中でも
群を抜いていたと思いました。

それは、教師のパフォーマンスというより、
生徒がアクティブであった
という文脈においてです。

そんな彼らだからこそ、
一つだけ注文をつけました。

それは、
「教室を安全な場所にする」
「教師が教壇を降りる」
ということについてです。

例えば、授業で行われる「発問」を例にあげます。

日常の対話の中で、質問を発するのは、
「自分がわからないから」
「自分が知りたいと思うから」
「何としても訪ねたいという思いにかられて」
ということだからだと思います。

しかし、教室空間で教師が発する発問は、
(しばしば、「今日は7月7日だから、
出席番号7番の○○君」などと指名して)
教師の頭の中にあるものを
生徒に言わせるものが中心です。

これは、ある種異常な世界です。

私は、数年前、教育委員会で
学校訪問を行っていた時、
このような「予定調和型」、
「アリバイ作り型」、
そして、「強迫的」発問に
違和感を覚えだし、何度も提言してきました。

たかが発問ではありますが、
それは教室が権力空間の構造であることの
発露と見ることができると思うのです。


実は、昨年、鷲田清一氏の
「死なないでいる理由」の
第二章「ひととひとのあいだ」(1998)
をふとしたきっかけで読み直しました。

少し引用します。

<前略>
尾木のいっていた「同調圧力の強さ」は
「形だけを整える学校文化」につながる。

永山がとりあげるのは、
たとえば茶髪を取り締まろうとする教師と、
対抗手段として黒いカツラをかぶってくる生徒との、
マンガのようないたちごっこ。

ほんとうはどうでもいいことなのに、
生きることにかかわる
ほんとうに大切なことはそっちのけで、
些末なことで敵対している。

だからその些末なことさえ守れば、
あとは何をしてもオッケーという気持ちを生み出す。

これは、発達心理学の浜田寿美男が
わたしに語ってくれたことと符合する。

学校では教師が知っていることを生徒に訊く。
ふつうはじぶんが知らないこと、
知りたいことを他人に訊くものなのに、
教室では、何かを伝えたいという
やむにやまれぬ気持ちから
相手に問いかけるのではなく、
相手を験(ため)すために問う。

これは相手を信頼していないことを
前提とする関係だ。

だから正解だと生徒は「当たった、当たった」
という感覚で受け取る。

教師はいちどそういう学校言語の制度から
下りてみたら、というのである。

<学び>の関係における信頼のすっぽ抜け。
「学級崩壊」は、
「子どもたちが見えなくなったものでもなく、
子どもたちが荒れだしたのでもなく、
教師の質が落ちたのでもなく、
これまで放置し続けてきたシステムの不具合が
ついに臨界点まできてしまった」
ことの帰結だと、永山はいう。

そしてそのためにはまず、
あの同調性の濃いクラスを解体して、
「不確か」だが「生きる喜びと確実にむすびついた」
パーソナルないとなみとしての
<学び>の方策を探ることだという。

教育を家庭と学校の問題として論じるときは
もう過ぎたのが、よくわかる。


現在とは時代が違うので
教育環境も異なるわけですが、

随分前に読んだときには
スルーしていたこの文章に

強く共感し膝を打ったことを覚えています。

教室を権力空間から解放して
主体的で対話的な場をつくること。

その一歩として「発問」を振り返ってみてはどうだろう。

そしてこれまでの「発問」から
「パワフルな問い」
「ナラティブな問い」
「問う価値のある問い」
に変えていくこと。

それが、自分の授業を大きく転換する
チャンスになるかもしれない。


 

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