グループワークについて③「遺棄されること」

前回は、グループワークの失敗事例ということで、
少し憂鬱な事例をあげてしまいました。

一応、授業者本人が見てもわからないように、
実際の事例と科目を変えるなど、
脚色をしていることをお断りしておきたいと思います。



グループワークは、発信などの活動によって、
自分に自信を持つことができるでしょう。

また仲間と話し合うことで、
深い心の交流ができるかもしれません。

そして、集合知によって、問題を深く掘り下げ、
新しい価値を生みだす可能性もあります。

しかし、一方そこには、
危うさも隣り合わせにあることを
教師は自覚すべきと思うのです。

それは、自我がぶつかりあうことで、
人を傷つけたり、あるいは他者を疎外してしまう
ことがあり得るということです。


私はとりわけ人見知りで
引っ込み思案な性格だったので(本当)、
グループ活動が好きではありませんでした。

だいたいいつも疎外される側に
なってしまうからです。

皆が盛り上がる中で、じっと静かに
時間が経つのを待つのは辛いものがあります。

自分が意見を言いたくても、
大きい声の人にかき消されてしまいそうで、
気後れして諦めてしまうこともあります。

大人になってからでもそういう場面はあります。
例えば、部活動の専門部での
懇親会に参加したときなど。

私の周りの人たちはみんな和気藹々として、
ふざけ合って、大声で語り合い、笑いあっています。

自分も勇気を振り絞って話しかけても、
スルーされるか適当な相槌を打たれるだけです。
ヘタすると場がしらっとします。

そのときの自分の心理は

「あなたは、まだここで話をする資格を得ていない」

と烙印を押されたような感じです。

もちろん、彼らに悪気などはないのですが。

まあ、大人の世界なら、自意識過剰とか、
イレイショナル・ビリーフだって片付けられますが、
高校生などの発達段階の中では
とても深刻な問題に発展していくと私は思うのです。


少し脱線しますが、私が10年ほど前に、
花巻北高校に勤務していた時、
ネット絡みのいじめ問題がありました。

当時、学年長の私は、学年集会を行った後に、
ジョージ秋山の「浮浪雲」の話を
学年通信に取上げました。

WEBなので、絵は紹介できないので、
そのストーリーを以下に簡単に記しておきます。


それは、青田塾の師範の青田先生が
血相を変えて走る場面からスタートします。

青田塾に通う正次郎が自殺したのです。

新之助(浮浪雲の息子)たちが、噂をしています。

「昨日会った時はいつもの通り、にんまり顔だったよ」
「なんか悩み事があったのかねえ。勉強ができないとか」
「正次郎はできるほうじゃん」

青田先生は悩み、いろいろなところに出向き、
彼の死の理由を探ります。

「正次郎のことでちょっとしたことでもいいんだ。
なんでもいい話してくれ」
「喧嘩とかいじめは?」

塾に通う子供たちに問います。

子ども達は
「正次郎は喧嘩するようなヤツじゃないですよ」
「いじめっつうのも見たことないです」

青田先生は原因が掴めず途方に暮れます。

そんな時、正次郎の母が遺書を持って、
青田先生を訪ねます。

遺書には

『こんど生まれてきたらみんなとなかよく遊びたい。
母上ごめんなさい』

と書かれています。

母親は、青田先生を問い詰めます。

青田先生は、自分が調べた範囲では
いじめはなかったと母親に伝えます。

しかし、母親の気持ちは収まりません。

「先生、私、五日前にご相談に参りましたよね。
正次郎が元気がないようですって」

「はい。ですから私は正次郎君を
十分に監視しておりました。
いつもとなんら変わりはありませんでした」

「だから、放っておいたんですか」

「子どもというものは、すぐに落ち込んだり
元気になったりするものですから」

「もーっ!言い訳ばかりで!
あなたに教育者の資格はありません!
お奉行所に訴え出ます。」

青田先生は自問します。

(正次郎だけではない。
私はひとりひとり片時も目を離したことはない)

青田先生は、更に彼の足跡を辿り、
悩み考え続けます。


塾に、説明を求め、多くの母親達が押し寄せてきました。

青田先生は

「私は逃げているのではありません。
真実を見極めたいのです。
正次郎君の死の真実をです。
それがいじめだとは私にはまだ掴めないのです」

「まだそうやって、責任逃れをするのですか」

「原因は家や親にあるとでもいいたげですね」

「いい加減にしなさいよ!子供が死んでいるんですよ」

畳みかけられた青田先生は涙を流します。

「泣いたからって正次郎さんが
戻ってくるわけじゃないよ!」

青田先生は、心身ともボロボロになり、
遂に浮浪雲に意見を求めます。

「おねえちゃん、いいうんこしてます?」と、
いつもの調子の浮浪雲に、
青田先生は切羽詰った顔で訪ねます。

「浮浪さん、お願いですから
今日は真面目にはなしてくれませんか」

そこで、浮浪は、いじめについて語りだします。

「いじめねえ・・。」
「いじめの根っ子は何だかわかります?」

「・・・」

「遺棄でんす」

「死体遺棄。これは重い罪でんす。
しかし、生きている人間を遺棄する。
これはもっと重い罪です。
ですけど、お咎めは受けません。
その罪は見えませんから」


青田先生は浮浪のその言葉を聞いて、
回想します。

それは、塾が終わってから子どもたちが、

「おーい、勝馬、山田屋に寄ってくか?」
「あー行くよ行くよ」
「吾輩もいっていい?」
「もちろん」
「行こう行こう」

という和気藹々と話をする場面です。

青田先生は気づきます。

「そうかも・・。あのとき、遺棄されてたんだ。
うかつだった。気づかなかった」



「どうして人はいじめをするのでしょうか」

心労の青田先生は、
渋沢先生の下に相談に出かけます。

渋沢先生はこのように答えます。

「自我です。自我とはねえ、ひとを妬み、嫉み、
ひとを蔑み、ひとを虐げ、ひとを辱め、
ひとに憤る・・・これらの念でございます。

これは人間誰でもございます。
この念は生きるための力になっています。

子どもにはこの自我の念が強いんですね。
その自我の念を満足させるには、
その対象となる相手が必要なんです。」

青田先生は更に問います。

「先生、私は子どもたちを預かる立場の
者としてどうすればいいのでしょう」

渋沢先生は答えます。

「慈悲です。慈悲とは他人の悲しみを
いつくしむということです。
これよりほかにございません」

「浮浪雲」第783話より


私は、

アクティブラーニングをどうとらえているかによって、
グループワークの性質が大きく変わると思います。

アクティブラーニングを、
学習定着率を高めるメソッドと捉え、
結局、模試の偏差値や大学進学実績に
エビデンスを求めようとするのなら、

あるいは、教科の深い学びなくして
アクティブラーニングではないと
主張するのであるなら、

そこで行われるグループワークから
教師は遺棄を見逃してしまうのではないか。
またはそれが助長されていくのではないか。

そうではなく、

アクティブラーニングを、
生徒が主体的に学びだす場、
安全・安心な対話空間という
生徒目線で捉えた場合に、
グループワークにおける遺棄そのものを
なくすことが、
むしろ焦点化されていくのではないか、

そんな風に思えるのです。

そう考えると、アクティブラーニングは
教師の監視や、
もしかしたら従来的な評価からも
解放されていかなければならないのかもしれません。


今、私は、グループワークを
積極的に行おうと考える派です。

グループワークが嫌だと思っている生徒が、
経験してみたらとても充実し、自分が変わった、
と思えるようになって欲しいのです。

白状すると、それは、私自身の経験でもあります。

グループでの学びあいが、
どれほど自分を変えてきたか、
その思いを子ども達にも味わって欲しいのです。

それは、アクティブラーニングブームを捉えて、
教室をいじめのない空間に変えていく
試みでもあると思います。


では、具体的にどうするか。

どのようなグループワークを行うべきか。

もう、これは、それこそ集合知。
皆さんの意見を求めるしかありません。

ですが、次回は、私の乏しい経験の中で
思っていることを述べてこのシリーズを
終わりたいと思います。



 

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