グループワークについて②「いくつかの事例」

グループワークについての私見を
ブログに書いたところ、
多くのご意見をいただきました。

私と同じような問題意識を持っておられる方が
たくさんいるんだなあと、しみじみと感じ、
ちょっと嬉しくなりました。

私などが話すより、皆さんからの
フェイスブック上での書き込みを紹介するだけで、
十分のような気がしますが、
更に皆さんからご意見をいただければと思い、
前回の続きを書き綴っております。

今回は、昨年私が体験したいくつかの授業や、
担当者などとのやりとりを紹介しながら、
私が感じたことを記したいと思います。

【事例1】

ある中学校の数学の授業です。

授業の冒頭、先生は

「これからはアクティブラーニングの時代だ。
だから今日はグループで話し合って進める授業を行う」

と高らかに宣言します。

新しい単元に入ったところなので、
グループワークでどのような問題解決を
仕掛けるのか期待していたのですが・・・。

彼は、いきなりプリントを配り出しました。
そのプリントは教科書にある問題が
10個ほど書かれているものでした。

そして

「じゃあまわりと相談して問題を解いてください」

といって、30分以上生徒を放置してしまったのです。

どうやらはじめてのグループ学習だったようです。

先生は、ぐるぐる机間巡視し、
時々、やる気のない生徒に声をかけたり、
「どうやって解くんですか~」と答えを欲しがる
一部の生徒達のところで話し込んだりしています。

途中で先生が、
「自由に移動してグループを作っていいんだぞ」
というので、だんだん友達どうしの集まりになっていきます。

すると案の定、問題を解こうとする生徒、
何もしようとしない生徒、
何をしたらよいかわからない生徒、
一人で何かを書いている生徒、
何人かで数学ではない話で盛り上がっているグループ、
先生が近づくとやっているフリをする生徒、
堂々と居眠りする生徒などが出現します。

そしてついに悲劇が起きます。

消しゴムをぶつけていたずらする生徒が出てきてしまい、
それを見た先生がぶち切れて説教に。

クラスに険悪なムードが漂うという、
恐れていた展開になってしまいました。

その後、プリントの解答を教師が一方的に解説し
(ときどきアリバイ作りのような発問を加えながらですが)
終了しました。

授業後、授業者の彼が
助言を求めに私のところに来ました。

いくつか問題点を指摘したのですが、
多分彼の心には届かなかったように思いました。

そして、彼は私にこのようにいいました。

「生徒に主体的に学ばせるような授業を行ったけれど、
うまくいかなかった。
やっぱりアクティブラーニングってだめですね」

ああ。

彼は、自分の授業が失敗だったことは
自覚している。

しかし、その原因は「主体的な学び」にある、
といっているんですね。

主体的にしなければ良かった、と。

皆さんどう思いますか。

でも、これは、特別な事例ではなく、
あちこちで繰り広げられている
ケースではないかと思うのです。

「ALをやれと言われる」→「グループワークやったよ」
→「だめじゃん」→「やはりALはだめだった」

という、数学で言う「背理法もどき」の、
よじれロジックが発動されているのですね。

【事例2】

次に、あるメールを紹介したいと思います。

学校を挙げて、組織的に
アクティブラーニングの実践を行っている、
ある高校の校長先生から、
こんなメールをいただいたことがあります。
(少し脚色しています)

キャリア教育やアクティブラーニング型授業を
推進しているので、
生徒の満足度は高いと思っていました・・・。
ところが、○○科(ある教科)の生徒アンケートから
生徒の不満が大きいことが分かりました。
○○科は毎時間グループ活動を行うという
アクティブラーニングを
積極的に行っていたのにショックです。

アクティブラーニングなど、
確かに未来を見て改善する視点は
大切かもしれませんが、
足もとをよく見ないといけませんよね。

現状を見てあたりまえのことが、
あたりまえのようにできているかを
冷静に見る視点が大事だと思います。


私は、この〇〇科の授業を
参観したことはないのですが、
メールのやりとりの中で感じたのは、
ここで行われている「アクティブラーニング?」は、
恐らく、教師が生徒の活動をひたすら管理し、
厳しく評価するという、
いわば、監督・演出・主演=教師、
エキストラ=生徒、
というものではないかということです。

実は、そういう授業も多いんですね。
以下の事例もそのようなカンジです。

【事例3】

以前、「学びの共同体」を掲げる、
ある地域の中学校の授業を観たとき、
とても驚いたことがあります。
例えば、先生の

「じゃあ、グループになって」

の一言で、

生徒は、音も立てず
(机の脚にテニスボールがついている)
瞬時に机をくっつけます。

その素早さに、私は目を丸くしました。

そして、グループ内に
「司会係」「用具係」「まとめ係」などが割り振られ、
先生の合図で彼らはきびきびと動きます。

「グループで話し合いなさい」というと、
まるでスイッチが入ったように、
ペアやグループ内対話が起きます。

先生は、その「心地よいザワザワ」に目を細め、
話し合いの後に、何人かの生徒を指名し
見事な発表をさせます。

着地も成功、素晴らしい授業、一丁上がり、
てなわけです。

でも、私は、生徒の話し合いの様子を見たとき、
「目の前にいる相手に話しかける」対話ではなく、
「話している様子を第三者に見せるため」
の演技のようにも思えてしまいました。

うがちすぎと言われるかもしれませんが。

でも、高校に入って、
こんなグループワークを行うといわれたら・・

うーん・・・嫌だろうなあ・・・

【事例4】

今年、ある中学校に出前授業を行いました。

その教室の黒板に
大きなポスターが掲示されていました。

「学ぶ力」「生きる力」を高める
コミュニケーションスキル

という表題です。

そこには

「前に出た人や、ペアの相手の目を見て、
頷きながら聞く」
「大きな声ではっきりと伝える」
「姿勢を正し、目に力を込め、
ジャスチャーや強弱をつけて話す」

などと書かれています。

現行の学習指導要領の評価の観点は、

「感心・意欲・態度」「思考・判断・表現」
「知識・理解」「技能」の4つなのですが、

一昔前の学習指導要領における評価の観点は、

「感心・意欲・態度」「思考・判断」
「技能・表現」「知識・理解」でした。

つまり、かつては「表現」が、「技能」と
抱き合わせになっていたのです。

現行の学習指導要領では、
この「表現」が「技能」からはずれて、
「思考・判断・表現」と括られています。

当時の中教審の評価ワーキンググループの
主査を務めた無藤隆氏は、
「表現」については、
従来の技能的な表現ではなく、
言語力に類した思考の言葉などによる表現
という意味であり、
思考と表現は一体的循環的に進むもの、
と説明しています。

教師が未だに「技能的なプレゼン力」を
表現力としてクローズアップし、
それを評価までしている現状が、
私はとても気になるのです。

【事例5】

最後は、ある小学校の課題研究授業の様子を
ビデオでまとめたものです。

この学校は文科省の指定も受けているということで、
それは見事な授業でした。
小学生が、こんな凄い街づくりの提言をするのか、
と驚嘆しました。

しかし、その動画をじっくり観ると、
素晴らしい発表を行ったり、
グループ内で持論を展開し
見事に合意形成を行ったりするのが、
特定の子どもであることに気づかされるのです。

他の子ども達は、そのグループ内で、
リーダーに協力すべく、
脇役のポジションで頑張っているわけです。

もちろん脇役のポジションにも
価値を与えているわけですが。

でも、であればこそ、
その子ども達の健気さに、
私は複雑な思いをいだき、
少し胸が痛くなったのです。

クラスの中に、一軍メンバーと二軍メンバーがいる。

グループ活動がこのようなヒエラルキーを
つまびらかにしてしまったのではないか。

一方的な授業ならば、
それは顕在化しなかったかもしれないのに。

これは、言い過ぎかもしれません。
評論家目線なのかもしれません。

でも、私の胸の痛みの理由は、
自分の過去の嫌な経験と
シンクロしてしまったからでもあるのです。

と、ここからが、本題なのですが、
事例にあまりにも字数を割いてしまい、
長くなってしまいました。

この続きは、また次回ということで。

<追記>

私が、ここで述べたことは、
グループワーク自体がいつでも孕んでいる
問題なのかもしれません。

でも、私は、
現在のグループ活動に見られる多くの問題は、
ALの進展によって生み落とされた
病理のようにも思えるのです。

このような現状を見ると、
めげそうになります。

でも歯を食いしばって何とかしたい。

そう思えるのは、
こんな冗長な文章にお付き合い下さり、
更に、激励のコメントや
的確なアドバイスをいただきながら、
互いに高めあえる
同志の存在があるからこそと思います。

では、次回こそ、クラス内ヒエラルキー
についてまとめたいと思います。

 

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