「アクティブラーニングは無定義用語?」

昨夜の広島での講演会や
その後の懇親会で、
たくさんの質問をいただきました。

そこでやはり出されたのが
「アクティブラーニングの定義って何ですか」
というものでした。

もちろんそれを言われた方は、
文部科学省の定義なども読んでいて、
その上での質問なのですね。

つまり、このような質問を発する人たちの
心の中の疑問は、

「生徒を主体的に動かす」とか
「外的活動を入れる」「思考を活性化する」
といった授業は、これまでも行われてきたし、
自分もやってきた。
それと、今、ことさら叫ばれる
「アクティブラーニング」とは
一体どこが違うのだろうか、というものです。

そこで、ある人は思考停止になり、
ある人は怒り、
またある人は批判的に分析しだします。

ここで話しは変わりますが、
私がお付き合いをしている優れた実践家の方々に、
彼らのアクティブラーニング観を問うと、
だいたい次のような答えが返ってきます。

●「社会=学校」となる学びをつくり、
 グローバル社会・共生社会に生きるための
 マインドセットを生徒に身につけさせること。
●知識・技能という一元的な価値観により
 序列化をするのではなく、多様な価値観を認め、
 他者と共存するための学びを創りだすこと。
●主体的に学び続ける
 アクティブラーナーを育てること。
●教室を「教師-生徒」の権力の場から解放し、
 安心と安全の対話と学習の場にすること。


一方、アクティブラーニングや
その言葉が流行していることに
懐疑的な思いを抱いている人の
特徴的な意見は次の様なものです。

●ALは準備が大変で教師はますます多忙化する。
●教科書が終われないのではないか。
●大学入試に耐えうる学力が身に着かない。
●学習規律が乱れる。活動ありて学びなし。
●その前に基礎基本を徹底することが大切。
●グループワークが苦手な人はどうするのか。
●生徒の活動に評価(点数をつける)なんてできるのか。

私が思うに、この両者の根本的な違いは、
前者は、アクティブラーニングが、
今「なぜ」行われようとしているという
「WHY」の視点から考えていることに対し、
後者は、現実問題、つまり
「WHAT」「HOW」から考えているということです。

米国ランド研究所のスタッフである
サイモンシネックが、
TEDカンファレンスの中で述べた、
「ゴールデンサークル」という概念によって、
このことを図解してみましょう。

WHEN-WHY-01LT.jpg


WHEN-WHY-03LT.jpg


WHEN-WHY-02LT.jpg


サイモンシネックは、
「WHY」から「WHAT」に向かうアプローチが
人の心を動かすということを、
アップル社の戦略や、
ライト兄弟の成功を例にあげながら
力説しています。


さて、話をアクティブラーニングに戻します。

私は、思いっきり歴史が苦手なのですが、
笑われるのを承知で、
豊臣秀吉の行った「刀狩り」を例に出して
アクティブラーニングを語ってみたいと思います。

「刀狩り」とは何か。

それは「刀」を「狩る」こと。

これでは何の意味もありませんね。

それは「アクティブラーニング」を
「能動的な学び」と定義するようなもんです。

では、

「刀狩り」とは、

「豊臣秀吉が1588年に出した法令で、
農民から刀を没収するというものである。」

ではどうでしょう。

これは、私の中学高校時代の、
直近の定期考査にだけ耐えられるような、
貧しい学び方です。

いわば、「WHAT」だけを彷徨った定義ですね。

本当に「刀狩り」を理解するには、それが
「なぜ」行われなければならなかったのか、
その時代背景はどうだったのか、
関連する他の史実としてどんなものがあるのか、
などといっうように
「WHY」にリーチすることが必要ですよね。

そこで、つらつら調べると、
「刀狩り」とは、刀を狩ったことではなく、
下剋上の世の中を終わらせ、兵農分離を進め、
農民を農業に専念させるという、
秀吉の長期政権維持への策
であったということがわかりました
(違うかも^^)。

つまり、私が言いたいのは、
そこで「刀狩り」の具体を云々するのではなく、
その前後の背景や変化、あるいは、
その時代の様々な事象との繋がりに
着目すること(WHYの視点)が「刀狩り」を
理解することになるということです。

その中で、「刀狩り」とは、「兵農分離」の「象徴」
と見ることもできるのではないかと思うのです。

つまり「刀狩り」という言葉は
単なるエポックを記すための「記号」
という見方もできるのではないでしょうか。

またまた、話は飛躍するのですが、
古代ギリシャの数学者ユークリッドは、
彼の記した「原論」の中で、
「点」を「部分がなく位置だけあって大きさが無い」
とか、
「直線」とは「幅のない長さ」などと定義しました。
でも、その定義は、「部分」とは何か、
「幅」とは何か、と突き詰めていくと、
トートロジー(同義語反復)に陥る
危うさを孕んでいます。

そこで、20世紀のドイツの数学者ヒルベルトは、
「幾何学の基礎」という論文の中で
「公理主義」という立場で幾何学をまとめあげました。
彼は、「点」「直線」「平面」の実質的な定義を一切やめて、
無定義用語として導入し、それらに結合、順序
などいくつかの公理群を設定して、
ユークリッド幾何学を再定義しました。

ヒルベルトはこう言います。
「点・直線・平面」という代わりに
「テーブル・椅子・コップ」と言っても良い。

話しを一気に戻します。

私は、件の
「アクティブラーニングの定義って何ですか」
の質問に、

●授業手法としてのアクティブラーニング
●学習者の学びの状態としてのアクティブラーニング
●組織のカリキュラムマネジメントとしてのアクティブラーニング
●社会的ムーブメントとしてのアクティブラーニング

という4つの観点から
アクティブラーニングを語りました。

ここで、私は、アクティブラーニングを、
ほぼ「無定義用語」として使っています。
アクティブラーニングを、
「能動的学習」といおうが「主体的学習」とか
「参加型学習」なんていおうが、
それは一向にかまわないのです。

ただ、ドラスティックな時代の変化の中で、
教育・学びが新時代を迎えるということについて、
社会的コンセンサスを得るための「象徴」、
「記号」として流通させることが、
それを促す触媒になるならば、
「アクティブラーニング」と新奇性を込めた
キャッチ―な呼び方が定着するのも
悪くはないとも思うのです。

だって、みんな
「アクティブラーニング」ってなんなんだ、
と訝しそうにしながら、
職種や校種さえも乗り越えて、
こんなにも学びを議論する
テーブルができているんですもの。



 

コメント

>ドラスティックな時代の変化の中で、
教育・学びが新時代を迎えるということについて、社会的コンセンサスを得るための「象徴」、「記号」として流通させることが、
それを促す触媒になる

溜飲が下がります!

・eラーニングを、WBTと言おうがDVDを入れようが入れまいが、
・顧客志向をCSと言おうがマーケットインと言おうが、

それが本質ではなかったように、
ALの本質を穿っていただいたお話でした。

ありがとうございます。
2016/ 05/ 10( 火) 03: 34: 26| URL| しばた# KPRyFQWg[ 編集 ]
 
コメントありがとうございます。ALを軸とした学びのテーブルができていることは、学校や教師にとっては良いことと捉えた方がいいのではないかと。教育改革は、学びに携わる者同士が、まず声をあげていくことが必要ではないかと思っています。
2016/ 05/ 11( 水) 05: 13: 23| URL| しもまっち# -[ 編集 ]
 

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