熊本×反転G「支援を反転する」

フェイスブック上に、「熊本×反転」という
非公開のグループがあります。

私もそのメンバーの一人です。

このグループは、
「反転授業の研究グループ」内に
組織されたもので、
zoomという優れものの
ネットミーティングツールを使って全国と繋がり、
被災地の情報交換や
支援の輪を広げる活動を行っています。

先日、この運営責任者の倉本さんから、
スピーカーの依頼を受けたので、
昨夜の9時から1時間半ほど、
ネットミーティングに参加しました。

「熊本でこれから起こることを経験者に聞く」
というテーマで、東日本大震災の経験を
語って欲しいとのことでした。

でも、私は内陸部の人間なので、
家を流されたり、家族を失ったりという
経験をしているものではありません。

そんな私が、東日本大震災からの
復興について何を語るのだろうか、
そもそも語る資格があるのだろうか、
という思いが強く、引き受けるべきか迷いました。

私は震災後、岩手に戻り、
教育委員会に異動になりました。
学力向上のために学校訪問を行うというのが
私の仕事だったので、
被災した高校は全て訪問しました。

その経験の中で
「教育からの復興」ということだったら、
感じたことを、ささやかながらも
発信できるかもしれないと思い、
お話しさせていただくことにしました。

zoom-01.png


<教育からの復興>

震災後ほどなく、被災地の学校、
特に中学校の先生方から、
「学力の回復を急がなければ」という話が出された。

始業式が遅れ、教科書は流され、
そもそも学校に集まることができない。
もっといえば学校そのものがない。

そんな中、学力の回復を
どのように進めていけばよいか、
現場教師は途方に暮れながらも
必死に考えていたと思う。

その後、学校がスタートするが、
授業の遅れ回復、授業時間の確保という点から、
芸術鑑賞などの文化的行事や、
学年全体で行うような学校行事を
取りやめていったところが多かったと聞く。

その結果、後になって、
人間関係形成力やコミュニケーション力など、
情操に関する能力が健全に育まれていない
という結果が見られたと
多くの臨床心理士の方が指摘している。

つまり、人間形成という視点に立ったとき、
それほど、文化的行事の意味は大きい
ということなのだろう。

そして、それと同時に、
授業が、良い人間関係をつくる場であることに、
私たちはもっと意識すべきではないかとも感じた。

復興が進むにつれ、学力回復のエビデンスとして、
「全国学力調査」の順位の向上
という方向に集約されていった。

私はそのことに違和感を覚えた。
「教育からの復興」というスタンスで考えたとき、
学力の回復とは、「全国学力調査の順位」を
引き合いに出して論ずるだけでいいのだろうか。

そんな一元的な価値観で
学力の回復を論じようとするのは
間違いではないか、という感情だ。

もっと違う視点から
「学力」を論ずる必要があるのではないか。

私たちは震災で世界中から多くの支援を受けた。

例えばモンゴルの貧困地区に住む子供たちが、
生活保護費の一カ月分を支援した話や、
コロンビアのトイレもない小学校に通う子供たちが、
日本の子供たちに絵を描いて送り、
もし、自分たちのところに避難してきたら、
あたたかい食事をご馳走したいといっている
などの話には心を打たれた。

日本文学研究科のドナルドキーンが
「この震災で決意した」といって日本に帰化し
永住することを決めたという話にも感動した。

こんな話を聞くにつけ、
宇宙の共通語は「数学」
と言ってはばからなかった私だが、
実は「数学」ではなく、
「愛」であり「絆」であったのだと
確信したものである。

しかし、その一方、ローカル局での放送事故
「怪しいお米セシウムさん」問題とか、
京都の「大文字送り火」では東北の木は
汚染されているから使わないという話など、
東北に対する差別的発言や蔑視も相次いだ。

また、被災地支援という名目で
一発稼ごうというテレビのバラエティや
タレントなどの売名行為や、
政治家が被災地で瓦礫をバックに
写真だけ撮って走り去っていく、
「視察」という名のパフォーマンス的な行為も鼻についた。

そのような状況の中で、私が感じた、
教師ができること、しなければならぬ
「教育からの復興支援」とは何か。

それは、他者の気持ちに共感し、
支援する力を育むことであったり、
よい人間関係をつくり、
新しい価値を創造する土台を創ることであったり・・。

つまり、人権の尊重について学び合うことであり、
平和と民主主義、助け合いの精神の文化を
創造するための人づくりではないか。

これだって「学力」の創造だ。

我々が、教育屋の端くれとして
「教育からの復興支援」を謳うのであれば、
全国学力調査の順位という1つの評価軸によって
学力を矮小化するべきではないはずだ。

<他者との共存・リレーション>

田老町漁協の方の話を聞く機会があった。
彼は、壊滅してしまった漁場を復活させるには、
ウニやアワビが採れるようになるよりも、
ワカメが採れるようになる方がいい
ということを話された。

なぜなら、ウニやアワビと違って、ワカメは、
それを養殖する人、採る人、干す人、
加工する人という、
多くの人の繋がりを生むからだとのことだった。

つまり、そこに雇用が生まれ、
連帯が生まれることで、
地域の活性化に繋がるということだ。

私はなるほどと膝を打った。
それは、学校生活についても
同じことが言えるかもしれない。

幸せを感じながら高校生活を送るためには、
自分に向き合うだけでなく、
共に歩んでくれる仲間とのつながりを
深めていくことが必要であろう。

私たちは他者と共にあるとき、
きっと、より賢くなり、多くを達成できるはずである。
他者に寄り添うとともに、他者に分け与える。

その中で新しい知恵や考え方を共に創り上げ、
そして、そこに自分の存在を感じることで、
内なるレジリエンスが増幅される。

<復興は自分ごと>

「乞食は3日やったらやめられないって知ってるか。
政府や行政の支援を頼るだけで、
自分で何もせずパチンコだけしている人もいる」

被災したある地域に住む老人に話を聞いたとき
このようなことを言われ愕然とした。

そのとき私は、復興も学びも、
他から与えられるのを待つだけでは、
自分というものを失い、
どんどん疲弊していくのだと感じた。

「復興の取組は辛い仕事だけれど、
その後の未来のために苦難に絶えて必死に頑張ろう」

という悲壮感を伴った活動ではなく、
復興活動そのものを、
被災地の人々が今を生きる糧となるような
取組にしていくことが必要なのではないか。

それは、アクティブラーニングの理念ともつながる。

バングラデシュなどの途上国で、
アパレル事業を展開し、
社会起業家といわれる山口絵理子さんは、
現地の人々の持つ技術によって、
その事業を発展拡大している。

彼女のこだわりは、コミュニティを活性化するという、
正義感や義務感ではなく、
現地の人々への「シンパシー」であり、
「途上国から世界に通用するブランドをつくる」
という夢だという。

山口さんの足跡は、持続する震災復興への
ヒントになるかもしれない。

<組織のコンピテンシー>

東日本大震災津波の後、
行政のそれぞれの領域の「隙間」に起きる問題への
対応がうまくいかなかったという指摘がなされた。

領域分担型による縦割り行政は、
機能的、効率的であり、
それは、ガバナンスのスタンダードな形態といえる。

学校の校務分掌も同じである。

しかし、そのシステムは、
自分の範囲だけをまかなうことの危険性、
互いに相手の領分に口出ししないことによる
怖さも内包している。

大切なことは、自分の領域という株を守るのではなく、
領域を超えて「つながりあう」「重なり合う」こと、
その精神が必要である。

私は、今回のネットミーティングを通じて感じたことは、
「組織のキーコンピテンシー」ということである。

キーコンピテンシーとは、
個人と社会の両者にとって
価値や効果をもたらす能力であり、
それは

①テクノロジーなどの道具を相互作用的に用いる能力
②異質な人々からなる集団で互いに関わりあう能力
③自律的に行動する能力

とまとめられる。

私は、これを「行政組織」という文脈でとらえてみたとき、
従来型のガバナンスに足りないものとして、
関わり合う力、と
テクノロジーを相互作用的に用いる能力かな、
と感じた。

人の思いと情報を紡ぎ、瞬時にリフレクションができ、
素早く次の段階につなげていくことができる
「zoomによるネットミーティング」に
新しい可能性を感じたのは私だけではないだろう。


 

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