恃徳者昌

花巻北高校の初代校長は
佐藤昌氏なのですが、
昌と書いて「さかり」と読みます。

紫波町の観光大使をしている
私の妻にそのことを話したら、

紫波町には平井邸という豪邸があって、
年に何度か公開されているのですが、
そこにある扁額の写真を見せられました。

扁額01

何と書いているかわかりますか?

妻は、この字が読めなくて、
いろいろな方に聞いたところ、

「恃徳者昌」(向きを逆にしました)

であることが判明したそうです。

「徳を恃む者は昌える」
(徳をたのむ者はさかえる)

これは、「史記 商君列伝 第八」
に出てくる言葉だそうです。

「昌える」とは「栄える」ということだったのです。

妻の作った解説書は以下の通り。

商君とは、中国戦国時代の秦国の政治家、
商鞅(しょうおう)のこと。
法を定め、刑罰を厳しくして秦の国政改革を進め、
富国強兵に努めた。
それは、後の秦の天下統一の礎を築くことになったが、
商鞅自身は周囲の恨みを買って処刑された。
この扁額の言葉は、商鞅の腹心であった趙良が、
強引な手法で政治改革を進める商鞅に
忠告した言葉として語られている。


つまり、この言葉は

「恃徳者昌 恃力者減」

「徳をたのむ者は栄え、力をたのむ者は滅びる」
の一部。

「恃徳者昌」と「恃力者減」が
双対表現になっているわけですね。

ここで私は、この書から読み取るべきは、
むしろ、「恃力者減」の方ではないかと思いました。

それは少し言い過ぎだとすれば、
「恃力者減」の視点があってこそ、
「恃徳者昌」なのかな、と。

少し脱線するのですが、
そんなことから、私が思いを巡らせたのは、
アクティブラーニングのことです。

またかよ、と思われるかもしれませんが。

アクティブラーニングの定義として、
京都大学の溝上慎一先生のものを取上げてみます。

一方的な知識伝達型講義を聴くという
(受動的)学習を乗り越える意味での、
あらゆる能動的な学習のこと。
能動的な学習には、書く・話す・発表する
などの活動への関与と、
そこで生じる認知プロセスの外化を伴う。


ここでのポイントは、「能動的」が、
「受動的」を乗り越えるという文脈で
書かれていることです。

受動的学習という(憂慮すべき)状態があって、
だからそれを乗り越えることが、
アクティブラーニングの
目指すところなのだと私は解釈します。

つまり、一方的な上から目線の
注入型授業(「力を恃む」授業?)によって、
生徒を管理し、その結果、落ちこぼれが生まれ、
子ども達が疲弊している状況の認識がまずある。

そして、そういう現状を乗り越える
というマインドがあってこそ、
アクティブラーニングの登場であると思うのです。

私は人から、アクティブラーニングの実践者
といわれることもあり、
穴があったら入りたくなるわけですが、
そんなことを、ささやかながら
行うことができたとすれば、
その背景には、生徒の批判を受けとめ、
自分が上から目線の毒教師であったことの自覚と、
その反省から出発できたからだと思います。

だから、

「一方的な知識伝達型の受動的学習を乗り越える」
という視点が無く、
アクティブラーニングを一つのスペシャルな手法と捉えて、
取りあえず行おうとすると、
上から目線、教師の過剰なコントロールは
温存されたままで、

「さあ、ペアになって考えろ」
「グループで考えて発表しろ」

などという形式をもって、
アクティブラーニングですよ、
ということになってしまうように思うのです。

これでは、
「教科書が進まない」
「学力が本当につくのか」
「秩序が乱れる」
などの疑問が
いつまでも循環し続けてしまいますよね。

そして、やはりアクティブラーニングでは
基礎基本が身に着かない、
効果がないということになり、
昔型の学びに回帰する方向に
進んでいくのではないかと私は懸念しています。

 

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