北野武の道徳フラクタル論と久保田先生の数学の授業

北野武の「新しい道徳」が面白い。

北野フラクタル02

第1章「道徳はツッコみ放題」の第13節

「子どもに喧嘩をしちゃいけないと教えるなら、
大人だっていかなる理由があろうと
戦争をしちゃいけない。」

の中の冒頭に、いきなり

「道徳はフラクタルだ」

という言葉が登場し興味をひいた。

北野フラクタル01

北野氏は次のように述べる。

道徳はフラクタルだ。
フラクタルっていうのは、
数学者のブノワ・マンデルブロが定義した
幾何学の概念だが、簡単に言えば、
全体と部分が自己相似の関係になっている
構造を意味する。
<中略>
部分と全体が同じ形をしている図形を
フラクタル図形という。
つまり、道徳もそんな構造ではないかと思うのだ。

人がいて、家族があって、
市だの町だのがあって、
県だの府だのがあって、国があって、
さらには国際社会がある。

構成単位は人だったり、家族だったり、
地方自治体だったりするわけだが、
その形はフラクタルで相似なわけだ。

形が相似なんだから、理屈から言えば、
道徳だって国や市にも同じように
適用されなければいけない。

国と国の間の大きい道徳も、
小学校の教室の中での小さな道徳も
相似形になっていなきゃいけない。


北野氏は、そのような自説を展開し、
更に、

だとしたら、
隣の国が軍備拡張したからといって、
我が国も軍備を増強しようって政策は、
道徳的に正しくないことになる。


と結論づける。

そして、

道徳を云々するなら、まずは自分が
道徳を守らなくてはいけない。
それができないなら
道徳を語ってはいけないのだ。


と結ぶ。

タケシの道徳フラクタル論、痛快。とても面白い。

つまり、国際社会というコンパクトな空間に、
ある構造が定義されていて、
その空間のどんな部分を取り出しても、
その構造はいつでも保存されているというイメージ。


私は、北野氏のフラクタル論を読みながら、
少し違うことを考えた。

それは、人間どうしの「学び」
あるいは「コミュニケーション」についてだ。

私は、それを、フラクタルではなく、
ベクトル空間(和と実数倍が定義された
線形性を満たす空間)でイメージしてみた。

一人の人間の思考を「有向線分(矢印)」だとする。
そして、思考を深めることを、
伸び縮み(実数倍)として考えてみる。

矢印は、どんなに伸び縮みしても、
直線上を動くことしかできない。
つまり自由度が低い。

ここで、もう一つの別の矢印
(平行でないもの)を持ってくる。

ベクトル空間なので「和」が定義される。
これは、人間の思考を併せること、
つまり、協奏・共創である。

すると、その2つのベクトルが
一次独立(平行でないもの)であれば、
平面内のどんなベクトルも表すことができる。

つまり、2人で知恵を絞ることで
世界が2次元の平面に広がるわけである。

例えば、
ある問題の解決に向かうベクトルがあった時、
平面内のいくつかのベクトルを足し合わせたり、
伸び縮みさせながら、
その「問題解決ベクトル」
に持っていくことができる。

すると、平面内のいくつかのベクトルを
全部関わらせながら、
どう結合させればよいかを
サポートしていくのが教師なのかもしれない。

2つのベクトルでは平面しかカバーできない。
そこで、四面体を構成するような、
もう一つ別のベクトルを追加してみる。

すると、表し得る世界は
3次元空間全体に発展する。

その3つのベクトルは、
基底(BASE)と呼ばれ、それだけで
空間上のすべてのベクトルをカバーできる。

これは、人間社会でいえば、
あるコミュニティにおいて
我々を導くリーダーと見ることも
できるかもしれない。

つまり、私たち人間は、
知的空間を構成するベクトルであり、
その部分空間というべきコミュニティにおいて、
それぞれのベクトルが
自己研鑽し(伸び縮み(実数倍))、
そして共に交わり、結合する(和)ことで、
新しいベクトルを創りだしていく。
これが学びの構造ではないか。

学びは、コミュニティに存在し、
それは交わることで生まれる。
もっといえば、
それは人間そのもののこと
ともいえるのではないか。

つまり、人間とは「個の人」ではなく
「間柄を伴った、人同士のコミュニティのこと」だ。

などと、考えているうちに
わけがわからなくなりました。

皆さん、突っ込まないでね。
たわごとですから。

そんなことをなぜここに書いたかというと、
先日、大野高校で、
久保田先生の授業を見たことによる。

久保田先生は、
いつも、グループワークを中心に、
ひたすら生徒に考えさせる授業を
展開されている。

先日の授業では、
グループ内の2人が話し合う中で、
いろいろな価値が生み出されていく様子を
発見することができた。

また、考えが行き詰まったとき、
教師(という別次元ベクトル)が
関わる(共創する)ことで、
世界が広がっていく。

そんな授業の様子と、北野武の本から、
学びはベクトル空間だなあと感じたわけである。

では、その授業風景を
ダイジェストにしてみました。

理屈っぽい前置きで失礼しました。

ご覧下さい。






 

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