第2回「花高活性化プロジェクト」

金曜日の職員会議後、今年度2回目の
花高活性化プロジェクトを行いました。

今回は、先生方からのリクエストもあり
「不登校について」をテーマに
取り上げました。

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最初に、不登校の原因、背景、
誘因は何であるか、
学校、家庭、本人、社会の視点に立って
考えてみるという問いを立てました。

そして、その後、学校として
どのように取り組んでいくかについての
ディスカッションを行い、
各グループから提案するという形で終えました。

グループからは、

「外部リソースの活用」
「学習不安相談カウンセラーの設置」
「人間関係づくりのコンテンツ開発」
「一斉課題を見直し、個に応じたものに変えていく」
「親との連携、家庭への働きかけの工夫」
「応援歌練習の抜本的見直し」

などの意見が出されました。

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その中で、特に私が印象に残ったのは、

「不登校は受け入れるものである」

という意見でした。

そうです。

不登校は「撲滅すべき」問題行動
ではないのです。

そして誰にでも起こり得るものなのです。

教師は不登校生徒を受け入れ、
彼らに寄り添うということを
基本マインドとして持つ、ということが
職員間で共有されたことは
大変意義があったのではないかと思いました。

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私たちは、学校や教師が行う
「指導」に生徒は「普通に従うべき」
と考えています。

しかし、そのような中で、
実は、生徒と教師の間に
「そこはまあテキトウに」という
暗黙のコンセンサスもできあがっています。

そのような冗長性やゆとりがないと、
生徒は追い込まれる一方で、
破綻を生み出す可能性があるからです。

つまり、「普通に従う」という言葉の中には、
そんな「テキトウ性」も
内包されているのかもしれませんね。

そうやって、教師と生徒は、互いの利害の一致を
探っているともいえるわけです。

しかし、不登校になる生徒は、
教師や親の要求や期待に
過剰に答えようとする傾向が
あるのではないかと思います。
つまりそれだけ、ひたすら真面目で、
潔癖であるということなのです。

教師が「不登校に向き合う」ということは、
直接その子どもに向き合い、
聴従するだけでなく、
自分たちの行動は「これでよかったのか」と
内省するということでもあるのかもしれません。

私は、先生方の意見を伺いながら
そんなことを考えていました。

次回は、今回各グループが付箋紙にまとめたものを、
まとめて提示しながら、具体的な方策の決定に
進めていきたいと思います。

 

「教育相談室の飾りつけを見て感じたこと」

本校に「かがやきプラン」で
来ていただいている支援員のAさんは、
空き時間に秘かに切り絵を作って、
教育相談室の飾りつけをしてくださっています。

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自分が今やれることは何かを考え、
それをこのように
人知れず実行してくれているのです。

ささやかな行動ですが、
その心遣いがありがたいですね。


私たち高校の教員は、学力を向上させる、
進路目標を叶える、部活動で成果をあげる、
などというミッションを持っていて、
その実現のため、さまざまな取組を行っています。

その取組は、効果の最大化、
リスクの最小化を目指しながら、
紆余曲折を経て、太く強力なものになっていきます。

しかし、それが加速されていくと、
しばしば、「結果を出す」という大義名分によって、
過剰になり、影の部分も生み出します。

「学力向上」にしても「部活で成果を挙げる」ことも
正義であり正論です。

しかし、往々にして、その「正義」の名の下に、
効率性、画一性、一方向性によって
生徒を追い込むことが許されていきます。

しかも、そのような指導が
「やむを得ず」「一時的に」
行われるものではなく、
それを乗る超えることこそが、
能力を開花することだと目的化され、
指導の正当性を担保しようという、
ある種開き直り的現象にも
つながっていく面も否めません。

そうやって、人はその旗の下に集まり、
コンテンツはより強大化し、
それによって、立ち向かえる強者、
顔色をうかがって順応する者、
ドロップアウトする弱者の
三者に振り分けられているのが、
いわゆる進学校における
古くて新しい問題ではないかと思います。

さて、そんな中、
教育相談室の出入り口の
飾りつけをするということには、
そのような大義名分はありません。

「そんなことをやっても部活の成果があがるのか」
「学力向上に役立つのか」

と心の中で思う人もいるかもしれません。

だから、そのようなことをやる人は、
世の中にはめったにいないのですね。

確かに、○○のためにやる、
○○に役立つためにやる、
あるいは、上司に命令されたからやる、
自分の役割として与えられているからやる、
というのは一つ行動原理であり、
一見、筋の通った「正論」のようにも思えます。

でも、私はそこに、
どうしようもないミもフタもなさも感じます。

楷書の芸のようなストレートな正論。

真直ぐ過ぎてメマイがするぜ、ってね。

学校は成果をあげる場である、
という経済原則の視点で語られる度に、
私は、教育の成果や価値とは何なのかと、
どうしても立ち止まり、考え込んでしまいます。

もちろん、私は、進学実績や偏差値の向上といった、
数値で表される価値を高めていくことを
否定する者ではありません。

それは大切です。

しかし、同時に、やりたいからやる、
楽しいからやる、といった思いから出発する
教師や生徒の自発的活動にも
価値を見出だしたいと思うのです。

やらなくてもいいかもしれない仕事。
だからこそやる。
教育の価値はそこにあるのではないか。

むしろそのような行動にこそ、
私はクリエイティビティや主体性を感じるのです。

しかも、そのことは、
進学実績や偏差値を高めることと
二律背反ではないと私は思うのです。

学校が、価値を生みだす装置として研ぎ澄まされ、
機能していくことによって、
できるだけムダなことはしない、やらない、させない、
という学校文化が生まれるのではないか、
そして生徒や教師の創造性や芸術性、
主体性が損なわれるのではないか、
私はそのようなことを日々感じているので、
Aさんの切り絵装飾の活動が、
新鮮で感動的に目に映ったのかもしれません。

もちろん、Aさんの切り絵による装飾にだって
「学力を伸ばす」「部活で成果をあげる」ことと
無関係ではありません。

その理由を説明するのは、
野暮の極みかもしれませんが、
敢えて述べてみたいと思います。

それは、学校とは、
知識や技能を身につけるより前に、
子ども達の情緒を育む場であるからです。

そして、成果を挙げる前に、
他者への優しさを身につける
場所だからでもあります。

これが私の考えです。

こんなことをいうと、また
「センチメンタルな自己愛」などと
ささやかれるかもしれませんね。

でも私は、そんなレベルのことを
言っているのではありません。

情緒が育つことによって、気づきの感度が高まり、
それは本質を掴む力になるからです。

そして、自ら学ぶことへの原動力にもつながるのです。

そして、優しさを身に着けた人間は、
相手を高めることで自分の能力が
磨かれることを知っているからです。

そして、世の中の理不尽に立ち向かう
勇気を持つことにもなると思うのです。

これは、自分に打ち勝つ力にもなるのです。

私は、Aさんの、ささやかであるけれど、
自発的な活動から、
いろんなことを考えさせられました。

教育相談室が誰もが気軽に相談できる
部屋になることを祈りつつ。

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「2学年講演会より⑧ 最終回」

2学年講演会、今回でラストです。
なぜ勉強するかというテーマで話したことを
まとめました。




7 なぜ勉強するか

最近、スポーツマン芸能人として活躍されている、
武井壮さんが「勉強する理由」について
ツイートしたことが話題になっています。

武井さんのツイートはこれです。

勉強?した方がいいに決まってんだろ!
将来役立つかって?
勉強したことを無駄にせず
役立てるように生きてくんだろうがよ!
スポーツに集中したい?舐めんなよ!
寝てる時間以外16時間練習してんのか!?
1日1時間くらい人生を広げる新しい知識手に入れろ!
難しいなら人体の研究して競技に役立てろや! 
2017年Apr6日 13:46


将来何に役立つかで勉強する、しない、
を決めるのではなく、
勉強したことを役立てるように生きろ、
という言葉にとても共感します。

勉強することが結果として
自分の人生を広げていくことなんですね。

このツイート上で、いろんな人が
「勉強する理由」について書いていました。

以下、その一部を紹介しながら
私の話しを終えたいと思います。

英語や数学が出来なくても、
将来困るのは君たち自身であり、
周りは特に困りませんが、
倫理や政治や家庭科を知らないと、
君たち自身は何も困りませんが
周りがとても迷惑します。


勉強とは受験のためだけに
行うものではないということ。

勉強する一つの意味は、
社会の中で、人と関わり合いながら
生きていくためでもあるんですね。

勉強の嫌いな子供の言う
「大人になったら人生に三角関数なんか必要ない」は、
「三角関数が必要な人生が選べなくなる」が正しい。
一度きりの人生ゲームで、
その先に何があるのかも知らないまま、
そのルートの可能性は閉ざされたのだ。


私は、三角関数の面白さを知っています。
人よりたくさん三角関数の勉強をしたからです。

もちろん、そのときは、
それが何に役に立つかなんて
考えていませんでした。

また、三角関数を理解したことで、
直接お金が儲かったわけではありません。

でも、この経験は私の進路を決めてくれました。
そして何より、私の人生を
豊かにしてくれたように思います。

勉強することは、自分のその先の可能性を広げ、
未来を切り開くことなんですね。

勉強しないと視野が狭くなる。
勉強しないと僅かな知識だけで
この世を理解しようとするせいで、
ありえない仕組みを仮定して
「分からない」を埋め立て始める。
分からない物の多さが、分からないから
なんでも知っている気分になってしまう。


勉強しない人は傲慢になる。
勉強をすればするほど
人は謙虚になるんだと思います。

勉強が出来る人は絵を描くことに転向しても
勉強ができるからすごく上手くなるのが早い。
勉強に対する集中力を絵に置き換えるから、
上手くなるのが早い。
しかも勉強で培った様々な知識や知性が
絵に上乗せされる。


ある教科の勉強をするということは、
その教科の知識や技能を獲得するだけではなく、
他の分野へも転移されていくということなんですね。

勉強するということは、「学び方を学ぶ」ということ。

それは、人生の中で課題にぶつかったときに
対応する力を培っているということだと思います。

社会人になって
「学生の間に遊んどけ!
社会人になったら遊べなくなるぞ!」
ってアドバイスがじつは大嘘だとわかった。
金のある社会人の方が学生より絶対に遊べる。
学生のうちにやるべきことは
腰を据えた勉強や長期旅行などの
「長い時間を投入しないとできないこと」だと思う。


「物事には旬がある」といいます。
社会に出てからでも、
微分・積分は勉強できるかもしれません。

でも、様々なことを、
ひたすら貪欲に学べる機会は今しかありません。

今、皆さんには学ぶ時間が与えられ、
学ぶ環境が準備されています。

そのカードを切れるのは人生の中で、
ただ1回なんです。

「なんで勉強しなきゃいけないの?」って
小さい時親に聞いたら
「誰が本当のことを言っていて、
誰が嘘つきなのかわかるようになるため。
それがわかれば世界が楽しくなるし、
あなた自身の心が豊かになるのよ」
って言われたけど、
10代の私にこれをさらっと言う
うちの親すごいなっていまさら思う。

 
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上の図は、以前私が作った、
北海道と東北6県の高校3年生における
センター試験の受験率を表したグラフです。

岩手はセンター試験の得点が低い
ということがいわれているので、このグラフを作り、

「だってこんなに受験率が高いんだからしょうがないでしょ」

と説明しました。

私の話を聞いた人は
「なるほど、そうなんだ」と納得してくれました。

でもね。実はこれは欺瞞だったんです。

グラフをよく見てください。
これはいわゆる「足切りグラフ」とわれるものです。
本当は次のようになるのです。

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どうでしょう。

これだと、各都道府県における有意差を感じませんね。
有意差があるのかないのかをきちんと検証するには、
検定という数学的な統計処理を行う必要があります。

私たちは、このような数字のマジックや、
人を欺くロジックにひっかからないためにも、
日々勉強する必要がありますね。

もう一つ例をあげます。
ある有名なベストセラーの書物に、
「ピラミッドの不思議」として
こんなことが書かれていました。

「地上から頂上までの高さ146.7mと、
地上における建造物周辺の長さ921.44mの比率は、
円の半径と円周の比率2πとなる。
このような数学的に精密な相互関係が
偶然生まれるとはとても思えない。
したがって大ピラミッドの建設者たちは
πについて大変詳しく、
意識的にこの数値を建造物の寸法に
使用したに違いない。」


あなたはこれを信じますか。

古代人は、コロと呼ばれる計測輪で、
距離を測っていたといわれています。

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例えば、直径がLmの計測輪で
10回転するように周を決めれば、
その長さは10πLmですね。

でも、積み上げる高さはコロでは測れません。

そこで、例えば、高さLのレンガを
10個積み上げるなどとするわけです。

すると、当然、両者の比をとると
πの値が現れるわけですね。

私たちが学ぶことの意義は、
「なぜ」を掘り下げ、物事を批判的に観る力を
養うということもあると思います。

8 まとめ

これまで話したことをふり返ってみましょう。

■ 私たちの未来はどうなっていくのか
■ 働き方はどう変わる?
■ 「夢」と「手段」の違いとは
■ 知識ってなんだろう
■ 本質的な学びとは(「こなす」と「ひらく」)
■ なぜ勉強をするのか

こんなことを話しました。
ペアになってどんな内容だったか
確認して欲しかったのですが、
時間がなくなってしまいました。

私の思いは、皆さんに、
主体的に学び続ける人間(アクティブラーナー)に
なって欲しいということです。

オマケとして、アクティブラーナーになるための
魔法の言葉を紹介しますね。

切羽詰まったとき、困難な課題にぶつかったとき、
傷ついたり、憂鬱な気持ちになったときに、
こんな言葉をつぶやいて見てください。

「やり遂げ、乗り越えている未来の自分が見える」
「だったらどうすればいいのか考えよう!」
「俺は(私は)No Limit!」


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では、最後に一つの問を皆さんに投げかけて
終わりたいと思います。

それはこれです。

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これは答えのない問いです。

一人一人その答は違うでしょう。
でも、皆さんには、これからの高校生活の中で、
この問いに向き合い、そして、
自ら新たな問いを立てながら、前向きに
学びに向かっていって欲しいと思います。

ご静聴ありがとうございました。





長いことお付き合いいただきありがとうございました。
以上で、講演会のまとめとしたいと思います。



 

「2学年講演会より⑦」

2学年講演会のまとめ、
ついに7回目になりました。
あと1回で終わりますね。

今回は、知識が構成されていく
過程について話したことを
まとめてみました。




(2) 知を構成するスパイラル

では、知識がどのような場面で生み出され、
高められていくかを考えてみたいと思います。

私のWEB上での友人で、
田原真人さんという方がおります。

最近彼は次のような、

「善悪の評価を超えた
野原でまわる共存在サイクル」

という図を考案されました。

0411k-24.png

詳しくはこちら⇒★★

私は、そのアイデアを拝借して、
知を構成するスパイラル
というものを考えてみました。

まず、次の図を見てください。

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これは、学校と家庭の2つの場によって
知識が作られていくというモデルです。

学校で行われる授業や様々な指導によって
インストールされた知識を、家庭で復習する、
あるいは、家庭で教科書の予習や、
与えられた課題プリントなどを行い、
学校での授業の理解を進める、という循環です。

一見それはごく普通の
勉強の流れのように思えます。

でも、学校で真面目に授業を聴く、
そして先生から与えられる課題を
家庭でせっせと行う、というサイクルによって、
自動的に知識は生まれていくものでしょうか。

私は、知識がつくられる過程は
そんな単純なものではないと思います。

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私は、田原さんのモデルを真似て、
上のような図によって
知識が生まれていく過程を考えてみました。

青のベルトは、学校などで行われる講義や、
教科書などによって
(形式的)知識を得ていく過程です。

でも、ここではいくつかの事実が
頭に入ったに過ぎず、
まだ生きた知識にはなっていません。

大切なのは、青色部分で得た様々な事実によって、
自分のなかに「ゆらぎ」が生まれることです。

この「ゆらぎ」とは、
「そうか!という気づき」や
「え!という疑問」、
あるいは「なに~!という混乱」
などが頭の中に起きている状態です。

そのような状態の中で、学習者は、
与えられた事実を咀嚼し、
これまで持っていた知識を動員しながら
新たな知識として編み直していくのです。

つまり、自らが知を創りだし、
掴み取る過程が黄色のベルト部分です。

ですから、学びの根本は
この黄色のベルトの部分といってもいいと思います。

このような過程を経て、
自分の中で納得が生まれると思いますが、
もしかしたら曲解しているかもしれませんし、
あるいは、まだ独りよがりの
浅い知識であるかもしれません。

そこで、今度はそれをもって、
緑のベルトの部分に進みます。
ここはアウトプットの領域です。

例えば他者との対話や、発信、
共同での問題解決などの活動、
あるいはテストなどです。

これらによって、自分が得た知識が確認され、
定着へと進みます。

また、活用、発展される
深い知へと高めていくことや、
逆に、否定や反駁を経て、
自らの知識の未熟さや、
インプット不足に気づくこともあるでしょう。

すると、再び青の矢印に向かって、
貪欲に新たな事実を
インストールしようと思うわけですね。

こうしたサイクルの中で、
生きて働くパワフルな知が
構成されていくのではないかと私は考えます。 

将棋の世界で例えるならば、
青色部分が師事している師匠からの
教えや書物での研究、
黄色部分がそれを咀嚼し
自分のものにする過程、
そして緑色部分が対局やその後の感想戦、
また他者への助言指導などで
気づきを生み出す部分と言えます。

これらの3つのサイクルは、
学校や家庭という特定の場で
それぞれ行われるのではなく、
いたるところで、時に同時並行的に
もたらされるのではないかと思われます。

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このように
「メシ食っているときもフロ入っているときも」
学んでいる、
つまり、生きていること自体が
知識を構成する活動であると考えれば、
家に帰って、机に座っている時間を
「家庭学習時間」として調査することが
意味のないもののように思えてきますね。

皆さんは、学習時間の量や、
与えられたアサインメント(課題)の提出率で、
勉強したという安心感を持つべきではありません。
それはいわば「こなす」勉強です。

大切なのは、受け取った知識(青色・インプット)を
自分事にしていくことです(黄色・インテイク)。

それを促すためには、他者との対話や発信など、
表現すること(緑色・アウトプット)が大切だと思います。





次回は「なぜ勉強するか」についてです。
最終回になります。

 

「2学年講演会⑥」

何だかんだで、
2学年の講演会シリーズ6回目となりました。
今回の内容が、この講演会で
一番伝えたかったことです。




6 知識とは何か

さて、次に「知識」とは何か、
そして知識を生み出すサイクルとは
どのようなものかについて、
特に、昨年読んで感銘を受けた
「学びとは何か」(今井むつみ/岩波新書)
という本に書いてあることを参考にしながら
私見を話していこうと思います。

(1) 知識って何だろう
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上の写真は、私とある人が指した
将棋の対局の一場面から取り出したものです。
皆さんはこれを1分間だけ眺めて、
それを盤面に再現できますか。

恐らく将棋を経験したことのない人は
できないでしょうね。

将棋ができる人でも、
駒の種類や動かし方を知っている程度では、
再現できないと思われます。

でも、今ここにいる、佐野先生ならば
恐らくちらっと見ただけで再現できると思います。

なぜなら、佐野先生は花巻北高校時代、
将棋部で全国3位に輝いた方だからです。

佐野先生できますか?
(「できる」との力強いこたえがありました)


では、この図ならどうでしょう。

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(これはさすがにできないとのことでした)


そうですよね。

いくら佐野先生でもこれは再現できませんよね。


最初の図と二番目の図は、
盤上にある駒の数は同数です。

それなのに、なぜ最初の図は再現可能で、
二番目の図は無理なのでしょうか。

目の前にある事象を記憶するということにおいては、
どちらも同じではないか
と思う人もいるかもしれませんね。

それなのに、佐野先生はなぜこの図をチラ見
しただけで再現できると確信したのでしょうか。
(先生から話を伺う。
序盤の定石であることなどの説明がなされた)


佐野先生は、定石といわれました。
つまり、数学で言う定理や公式のようなものですね。

先生は、その定石を、
誰かに教わったり本で学んだりしたかもしれませんが、
それだけではないですよね。

他者との対局を繰り返すことによって、
きっと、生きて働く知識として
身についたのではないかと思います。

ちなみに、佐野先生は、
次の1手は何だと思いますか?
(「先手の飛車先の歩を突く」とのこと)

なるほど。さすがですね。
この図を見ただけで、次の差し手は
先手だとわかったんですね。

ここで、重要なことがわかりました。

この局面は、それ自体が
唐突に登場したものではなくて、
初手からの流れの中で
生まれたものだということです。

つまり、時間とともに移りゆく流動的な図と
佐野先生は捉えていたわけです。

だから、過去や未来の図さえ
イメージできるんですね。

私は、そこに、知識を生み出していく過程
のヒントがあるように思います。

最初の図には過去から未来に向かうメッセージ、
つまりストーリーが隠れているんですね。

それに対して二番目の図は
何らストーリーを持たない
(ストーリーを作り得ない)
無意味な情報なんです。

私は「知識」とは、盤面の図という与えられた事実と、
その背景にあるストーリーが一体となって
頭の中に整理され、進化している状態
のことではないかと思います。

意味のない情報を記憶する、
あるいは意味を捨て去って
ある事象を鵜呑みにするということであれば、
できるだけ余計なことは
排除するべきと考えられますね。

例えば「sdjhutnsklm」などという
無意味材料を記憶する場合は、
「情報量はできるだけ少ない方がラク」
「ひたすら繰り返し暗唱するだけ」
という方向で考えてしまうと思われます。

でも、

「しもまっちはシューズとサングラスと時計と
パーカーを買った。」

という文を覚えるときはどうでしょう。

「しもまっちは
『イーハトーブマラソンに出場するために』
シューズとサングラスと時計とパーカーを買った。」

というような情報を付加し、
ストーリー性を持たせた方が、
なぜその商品を購入するのかの意味が
理解できるので
記憶として定着されやすいはずですね。

例えば、ある先生が、
最初の図を生徒に覚えさせようとして、
次に示すような指導をしたとします。

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分解して、徹底して繰り返す。
テストに出すよという脅しで覚えさせる。

すると、もしかしたら、
直近のテストでは再現できるかもしれません。

でも、それは、テストが終われば忘れてしまい、
生きて働くものにはなりませんよね。

今井氏は、このように
「知識=事実」ととらえるような
誤った理解を「知識のドゲルケバブモデル」
と呼んでいます。
ドゲルケバブとは、トルコ料理で、
肉片を集めた料理のことです。

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先生から教えられる「事実」を、
ドゲルケバブのようにひたすら
蓄積していくという知識観ですね。

我々が勉強しようとしていることは、
ねじり鉢巻きをして、
根性で「教師から教えられる事実」を
ひたすら暗記することなのでしょうか。

そうやって時間をかけてドネルケバブのように、
いっぱい頭の中に「事実の集合」を
詰め込むことが良い勉強なのでしょうか。

それが大学合格を勝ち取るための
勉強なのでしょうか。

これまで話したことを次のスライドでまとめてみます。

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知識とは、学校の授業で先生から教えられる
「事実」の集合ではなく、それらを得た生徒自身が、
これまで自分の中に持っていた事実と融合させ、
編み直していく過程であるということです。

つまり、その事実に潜む背景や、
事実どうしのつながりなどを含めたストーリーを
自分の中に創り上げていくことであり、
それが問題を解く力になっていくということです。

知識とは、随時構成され進化し続ける、
いわば生命体ともいうべきものなんです。

そのように、知識を進化させるためには、
教師からの教えを
ただ受動的に取り入れるのではなく、
自ら課題を設定したり、発信したり、
振り返りを行ったりという、
主体的で対話的な活動が必要ではないかと思います。

そして、そのような活動は、
興味関心を抱くこと、自分を俯瞰して見ること、
想像力を持つことといった、
学びに向かう姿勢によって増幅、
促進されていくと私は捉えています。




次回は「知を構成するスパイラル」です。