「ハッピーマネジメント臓器モデル」

「未来のマナビフェス」での
ハッピーマネジメントセッションの目標は、
セッション自体がハッピーな場となり、
参加した方が幸せな気持ちになって、
何かしらのギフトを得て
職場に戻ってくださること。

そして、参加者の皆さんが
それぞれハッピーマネジメントの
プログラムを開発し、
ハッピーマネジメントマイスターとして
活動を広めてくださること。

そんなことを思っています。


「ハッピーマネジメント」概念図を作ってみました。

ここ→★★


そうしているうちに、気分がのって、
妖精バージョン、樹木バージョン、
臓器バージョン、
お化け屋敷バージョン(アンハッピー)
等々作ってしまいました。

ちょっと紹介しますね。

<妖精モデル>
ハッピーマネジメント概念図#02LT


<樹木モデル>

ハッピーマネジメント概念図#03LT


<お化け屋敷モデル(アンハッピー)>
badLT.jpg


<曼荼羅モデル>
HM-04.png


<臓器モデル(バッド)>
HM-01.png


<臓器モデル(ハッピー)>
HM-02.png


さて、昨日私はこの概念図を
フェイスブックにアップしたところ、

百合学園高校の内橋先生が、
「臓器バージョンは、聖書の
『コリント人への手紙』の箇所と
一緒だなあと思いました。」
というコメントをくださいました。

私は浅学にして
「コリント人への手紙」のことは
知りませんでした。

実は、私が作った臓器モデルは、
断食マイスターの講座での
畠山さゆり先生の教えや、
生物学者の福岡伸一さんや、
A・キンブレルの書かれた本、
あるいはNHK特集の「人体」という番組
からの影響を受けて描いたものです。

例えば、A・キンブレルの
「生命に部分はない」で、
その訳者である福岡伸一先生は、
冒頭によせた一文に
次のようなことを書かれています。

少し長いのですが引用します。

どうして手首は360°ぐるりと
回すことができないのだろう。
こんなシンプルな疑問について
考えてもらいたいのだ。
もし手首を360°ぐるりと
回すことができたなら、
私の身体はその瞬間、
機械音をたてて動くロボットのように
見えるはずだ。

なぜだろう。
それは手首というものが、独立して作動する
パーツになってしまうからだ。

ところが、実際には、
手首は一定の範囲にしか動かないし、
ひじは一定の角度以上には開かない。
ひざも反対側には曲がらない。
なぜ身体に、いちいち制限が
設けられているのか。
その理由を考えることは、人間とロボットの違い、
つまり生物と機械の違いを明瞭に教えてくれる。
手首がその制限を超えて、
より外側に回転を求めようとすれば、
私の腕は自然にねじれ、肩が開き、腰は傾く。
つまり制限があるゆえに、
身体の他の部分の協調的な動きが促される。
互いに他を補いながら、互いに他を律し、
すべてのパーツは相補性の中にある。
各パーツの制限は、
パーツ相互の運動のためにある。
いや、パーツという言い方が
根本的に間違っているのだ。

もし私の手首が加齢のため、痛みがでたり、
動きが悪くなったと感じたとき、
新しい手首を購入し、
交換することができたとしよう。
一体どんなことが起きるだろうか。
新品の手首を得た私は、気分一新、
新鮮な生活を送れるようになるだろうか。
恐らく否である。
新品の手首はすぐに痛くなったり、
動きが悪くなったりするに違いない。
なぜなら、手首の痛みや
その動きの悪さというものは、
部品としての手首自体に
問題があるというよりは、
全体としての私の身体の加齢や
動的平衡の乱れが、
たまたま手首に現れているに
過ぎないからである。
手首だけを交換しても
それらを治すことはできない。
私の生命は全体としてひとつのものだ。
本書のタイトル「生命に部分はない」とは
まさにそういう意味なのである。

(「生命に部分はない」/A・キンブレル著・福岡伸一訳)


さて、内橋さんの言われた、
聖書のコリント人への手紙とは
次のようなものです。

これも少し長いのですが、以下に引用します。


コリントの信徒への手紙一(12章12~26節)

体は、一つの部分ではなく、
多くの部分から成っています。
足が、「わたしは手ではないから、
体の一部ではない」と言ったところで、
体の一部でなくなるでしょうか。

耳が、「わたしは目ではないから、
体の一部ではない」と言ったところで、
体の一部でなくなるでしょうか。

もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。
もし全体が耳だったら、
どこでにおいをかぎますか。

そこで神は、御自分の望みのままに、
体に一つ一つの部分を置かれたのです。
すべてが一つの部分になってしまったら、
どこに体というものがあるでしょう。

だから、多くの部分があっても、
一つの体なのです。
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、
また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」
とも言えません。

それどころか、
体の中でほかよりも弱く見える部分が、
かえって必要なのです。

わたしたちは、体の中で
ほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、
もっと恰好よくしようとし、
見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。

見栄えのよい部分には、
そうする必要はありません。

神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、
体を組み立てられました。

それで、体に分裂が起こらず、
各部分が互いに配慮し合っています。

一つの部分が苦しめば、
すべての部分が共に苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、
すべての部分が共に喜ぶのです。



なるほど。私は膝を打ちました。

さすが内橋さん。
様々な領域に感心を抱き、
実践されているからこそ、
そのアンテナにひっかってくるんですね。

勉強になりました。
うっちー、ありがとうございました。



 

未来のマナビフェス打合せ

昨日は授業後、
8月9日に武蔵野大学有明キャンパスで
行われる「未来のマナビフェス」の
打合せのために東京に出かけました。

河合塾で打合せをした後、
私の行うセッションの
運営メンバーである
松嶋渉さんと齋藤みずほさん、
そして応援団としてかけつけてくださった
永島 宏子さんと
薬膳を楽しみながらの
ミーティングを行いました。

私たちが担当するセッションは
「学校改革マネジメント」です。

これまで私たち3人は月イチペースで
岩手・山口・東京を結んで
ZOOMによるオンラインミーティングを
継続してきました。

そして、「マネジメントの真髄とは何だろう」
という根っ子の部分の議論を
積み重ねてきました。

その中で、マネジメントとは

「人をハッピーにするもの」
「本来楽しいもの」

「他の領域に転移・連鎖し持続可能である」

「みんなでビジョンを共有し
価値を創造すること」

「組織と個人が互いの向上に貢献しあう場」

「本当に大切なことを、
本当に大切なことにする営み」


などという話がなされました。

じゃあ、ということで
今回のセッションのテーマは、

「みんなが楽しく元気になる
ハッピー・マネジメント」

でいこうということに決まりました。

ここで提起するハッピーマネジメントの目的は、
経営目標を達成するだけでなく、
関わる人間が幸福感を持つことでもあります。

この日は、聘珍樓の
「浅い眠りを改善する」という
今の私にうってつけの薬膳料理を、
ココロとカラダ、
Body&Soul 全身全霊で味わいつつ、
信頼のおける素晴らしい人たちと、
ハッピーな一時を過ごしました。

まさに、ハッピーマネジメントを語るための
時間と空間ですね。

あっという間の4時間でした。

「人と食 やさしさにつつまれて 
目に映るすべてのものがメッセージ」

字余り^^。

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「ユビキタス社会の中で求められる知性」

先日ブログで、
本校1年生のあるクラスで行った
「快適と幸せ」というテーマで行った
ディスカッションについて紹介しました。

実は、他の2つのクラスでは、
同じユビキタスコンピューティングの授業の中で、
別のテーマでディスカッションを行っていました。

今回はそれについて、
2つのクラスで行った内容を一つにまとめる形で
以下に紹介したいと思います。

1 ユビキタス社会についての感想

ユビキタスコンピューティングの
授業後に行った生徒たちの振り返りの中から
いくつかをピックアップし、
以下のようなスライドにして
授業で紹介しました。

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2 ディスカッションに向かう

なるほどと思う意見が多く、
とても感心しました。
その中で一つあげると、

「コンピュータで人間は便利な生活が
できるようになるかもしれないけれど、
環境とか動物とかにとっては
迷惑かもしれない。」


というコメントです。

私たちは「自分たち人間」を主語として、
あるいは「コンピュータ」と「人間」という
二元論の中でユビキタス社会を語りがちです。

そこには、他の生命体や環境という視点が
ないがしろにされているのではないか
という指摘ですね。

多くの生徒がなるほどと頷いていました。

さて、この振り返り中で、
未来の職業や雇用を展望するコメントも
多く見られたので、

次に示すような問いを立てて
ディスカッションを行ってみました。

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(ディスカッションの様子です)
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3 生徒たちの意見

生徒たちから次のような意見がでてきました。

まず、ユビキタス社会の中で、
「消えていく仕事、新たに生まれる仕事、
変化する仕事」という部分で出された意見は
次の様なものでした。

<消えると思われる仕事>

■ 工場作業員、スーパーやコンビニの店員
■ ドライバー(運転が自動化されてくる)
■ 通訳・オペレーター(AI/ソフトが進展する)
■ 会計処理などの事務処理が
  AIに代わられ事務職が消える


などです。

<変化する仕事・新たに生まれる仕事>

■ 書籍、教科書が電子化されることによって、
  様々な仕事の変化が起こる
■ 配達業務はドローンが活用され大きく変化する
■ 大工さんはAIを伴い新たな形の仕事になる
■ コンピュータを管理する仕事は増えるのではないか
■ 司法に関する仕事が変化する


最後の「司法に関する仕事」に関して、
とても面白い意見がありました。

それは、

「例えば、ドライバーなどをロボットが行う中、
事故が起こったとき、誰が裁かれるか
ということが問題となる。
そこで、法体系や法の執行を見直す必要がある」


という意見です。

彼は授業後の振り返りの中で
「論理に従って機械的に処理する」ことと
「道徳的に処理する」の二分化の方向に
進むと述べていました。

その他、消える職業の中で
「教師」という意見がでたので、

「学校や教師は消えるか?」

というテーマで少し意見を聞いてみました。

とても面白かったので、
彼らの意見を以下に記しておきます。

<学校や先生はなくなるか>

●肯定派
・AIやネットワークの活用が進むと
 教科指導において教師は不要になる
・小学校の先生は残るけれど
 中学・高校の先生は残らないのではないか。
・教科書を教えて、課題を出して
 テストをするだけならロボットの方が
 効率的に処理できる。

●否定派
・学校は人の集まるところに意義がある。
・教師は教科書だけを教えるのではない。
 教師が道徳や生きる力を教える人である限り
 なくなることはないのではないか。
・AIが進化しても、人にしか教えられないことや、
 人に教えられたからこそ
 身に着くこともあるのではないか。


これらの意見の中から透かして見えるのは、
アクティブラーニングのそもそも論です。

彼らの意見は、
教科ベースで、学習定着率向上や
目に見える短期的成果のための
授業メソッドを追いかけるだけでは、
教師の未来は暗いということを
示唆しているように思います。

また、ある生徒から出された、

「単純作業が機械に置き換わっていく中で、
つり銭計算など、日常で行われていた
生活上のスキルがなくなってしまうのは
危険ではないか」


という意見にも考えさせられました。

人間が行う単純作業は
どんどんオミットされていくけれど、
実はそんな単純作業の中に、
失ってはいけない本質的な何かが
潜んでいるのかもしれません。

次に、
「快適さを追求する中で、
人間が見失ってはいけないものは何だろうか」
という問いに対しては、
次のような意見が出されました。

■ 理性
■ 人を思いやること、おもてなしの心
■ 人に頼らずに自分でやろうという気持ち
■ 考え方を固定しない。豊かな発想力。
■ 積極性
■ 愛(ロボットは料理は作れても愛は人間だけのもの)
■ 地球環境問題についての意識
■ 人とのコミュニケーションの大切さ


このディスカッション後に行った
振り返りの主なコメントは以下の通りです。

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次の時間、
今回のディスカッションを振り返って
私から15分程の時間をとり
まとめのプレゼンテーションを行いました。

その内容を、使用したスライドを用いながら
簡単に紹介します。

1 社会の変化と教育の変化

社会の変化について、
産業主義社会の前後という文脈で
簡単に話しました。

次の様なスライドで説明しました。

0707fig07.png

私が学生時代は、より多くのお金や、
地位や名誉を獲得するために、
人生というレースに打ち勝つ、
という考え方が主流でした。

そして、皆が一斉に同じ方向を向いて行動し、
消費していく時代でした。

学校教育は多様性を認めず、効率性を重視し、
一方向的に教え込む形の授業が
中心になっていました。

現在はそのような社会は
既に制度疲労を起こしていて、
新たな考え方、価値観が
求められている時代であるという話をしました。

2 「雇用の未来」について

次に、

「今後10~20年程度で、
米国の総雇用者の約47%の仕事が
自動化されるリスクが高い」

という、2013年に行った、
オックスフォード大学の
マイケルオズボーンらの
研究に由来する言葉について
少し掘り下げてみました。

彼は、
「手先の器用さ・独創性・優れた芸術性
交渉力・説得力・他者を支援する力」
など9つの因子に着目し、704の職業を、
これらの因子が含まれる度合いを
数量化する中で、ランキングを行いました。
(以下のスライド参照)

0707fig05.png

0707fig06.png

だから、そのランキングを見ると、
上のスライドにあるように、

Recreational Therapists、
Healthcare Social Workers、
Dietitians、

果ては

Marriage and Family Therapists

などといった、
心や人間関係にアプローチする仕事が、
残る可能性が高い職業として
分類されていることがわかります。

つまり、オズボーン達の研究は、
他者に共感し、支援する力や、
何もないところから物をつくりだす
創造力のようなものを、
コンピュータが追いつけない知性として定義し、
そのような知性を含む職業が
今後人間には求められていく
という提言を行ったと解釈することができます。

ちなみに、オズボーンのランキングを見ると、
小学校の先生が高い確率で残る
という結果が出ています。

これは、彼らは、単に知識や技能を
教え込むことを越えて、
社会的知性、創造的知性の土台を
築いているからということなんですね。

ここで、オズボーンが提唱する
「コンピュータが人間に追いつけない9つの特性」と、
今回のディスカッションの中で
生徒たちがあげた
「快適さを追求する中で、
人間が見失ってはいけないもの」
の多くが重なっていることが注目に値します。

つまり、
「快適さを追求する中で、
そこで人間が見失ってはいけないもの」こそが、
私たちの未来の仕事として
確立されていくのではないか、

それは、皆が思っていることを
「本当に大切にしていく」ことで、
皆さん自身が新しい仕事を
つくりだしていく可能性を
示しているのではないか、
という方向で話をしました。

そして、まとめにかえて、
Apple CEOの Tim Cookの
次の言葉を引用しました。

人間のように考えられる能力をもつ
人工知能の存在に、僕は脅威を感じない。
しかし、価値や共感を感じず、
いわばコンピュータのように考える人々のことを
憂慮している。


最後に、ユビキタス社会における
「成功する人間」
「成功しない人間」について、
次のスライドを示しながら、
私のプレゼンを終えました。

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今の私の人生の楽しみの一つは、
生徒たちの素敵な
振り返りコメントを見ることであります。



 

「快適と幸せ」

昨日行った「情報」の授業が
なかなか面白かったので、
ブログにまとめてみようと思います。

今回の授業の前の時間、
ユビキタス社会についての
学習を行いました。

これは、コンピュータが小型化、
高性能化し、様々なモノや、
いたるところに情報技術が
取り入れられることによって、
快適な生活が実現されていく
という話です。

この授業を行った後、生徒たちの
振り返りシートを眺めていたら、
こんな記述に目が止まりました。

「便利になりすぎて自分たちを
追い詰めているかもしれない」

「コンピュータがどんどん小さくなっていき、
人間がコンピュータに管理される
時代が来るのかなと思った」

「コンピュータに支配されないよう
急激な成長、進化をさせず、
ゆっくりとその先について考えながら
モノをつくるべきだと思った」

「小型化し便利になるのは
人生でいろいろなことをするのに役立つが、
人間のあるべき能力を奪うと思った。」


快適で便利な社会になることは
必ずしも素直に喜べない
という視点での意見ですね。

私は、これらの意見を皆で深め、
共有していきたいと思いました。

そこで、昨日の授業で、

「快適であることは幸せであるか」

という問いを立てて、
ディスカッションを行いました。

ペアやグループで話し合った後、
何人かの人に発表してもらったところ、
次のような意見が出されました。

■お年寄りとか、社会的な弱者の
 人たちにとっては
 快適さを求めることは大切で、
 それが幸せにつながる。
 しかし、私たちが快適すぎると知恵を失い、
 いざという時に力を出せないかもしれない。

■快適すぎることで自分の実力を
 発揮する場が失われる。
 快適であることがあたりまえになっていくと、
 そこに幸せを感じることができなくなる。

■障害がある人が幸せになるために
 快適さを追求することは必要。
 でも、私たちの経験した応援歌練習のように、
 苦しさや辛さという快適ではないものを
 乗り越えることで、達成感のような
 幸せを感じることもある。

■快適であることが幸せであるとは限らない。
 コンピュータが与える快適さには限界がある。

■幸せとは、自分で課題を見つけ、
 それを解決しようと人生を切り開いて
 いくことではないか。
 ずっと快適なままだと幸せを感じない。

■ユビキタス社会ではなかった昔、
 「快適」も「幸せ」も存在していた。
 今、快適、幸せの定義が変わっている。
 幸せとはコンピュータによって
 もたらされるものだけではない。

■快適≠幸せである。
 例えば、エアコンを使うと、
 そこにあたっている人は快適で
 幸せ感があるが、環境を害するといった、
 他の人を不幸せにしているということもある。
 自分だけとか、自分の親しい仲間だけが
 快適になることで、多数の不幸を
 作っているということも
 考えなければならない。

■快適とは心地よいこと。それは幸せなこと。
 快適を求めることは
 人間の自然な考え方なので
 いいことではないか。
 人は、現在の快適さに満足せず、
 さらにその上の幸せ、快適さを求めていく。
 これは前向きな考えではないか。

■快適であるとは「ラクをする」
 ということでもある。
 そういう意味では昔の人は
 快適ではなかったけれど幸せだった。

■皆からいっぱい意見が出たということは、
 幸せも快適も個人によって
 考え方が違うものだ。
 答えを一つにしていく必要はない。

■「快適であることは幸せであるか」という問いは、
 昔は貴族とか一部の特権的な人間が考えていた。
 今はこういうことを広く一般的な問いとして
 皆が考えていけるようになった。
 これはネット社会の良さではないか。


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正味25分程度のディスカッションでしたが、
こんなにも様々な意見がでることに
私は感心し、それこそ「幸せ」を感じました。

そして、私が抱いたその「幸せ」には
続きがありました。

授業の最後に、
いつもの振り返りを行ったのですが、
その言葉から皆の真剣さが
ビンビンと伝わってきたのです。
これは教師として最高の幸せですね。

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そこで以下に、全員の振り返りを
紹介したいと思います。
原文のままです。
少し私のコメントもつけました。




まず、幸せは人それぞれの価値観によって
異なるという意見です。

■私も幸せの感じ方は人それぞれだと思う。
 確かに快適なことは幸せだと思う。
 でも、意見にもあったように、
 一部の人が快適になることで、
 他の誰かが快適じゃなくなる
 場合もあると思う。
 世界中誰もが幸せになるためには
 「快適さ」ということが基準ではないと思った。


「幸せの基準を快適さに求めない」これは卓見。
学校経営的にもアジャストしました。

■快適な社会になると自分が幸せだ
 と思うことは増えると思うが、
 自分から幸せを求めたり探究したりすることは
 いずれなくなるのではと思った。
 現状で満足する人と、まだ幸せだと思えない人とで
 差が大きくなってしまうのではと思った。

■快適がどんなものなのか
 よく分からないけれど、
 幸せと感じるかどうかは個人の意見だと思う。
 自分は本屋に行くと幸せに感じるが、
 快適になるということは、本屋に行かなくても
 本が手に入るということ。
 これは確かに快適だが幸せには感じない。
 やっぱり快適=幸せではないと思う。


■快適ってなんだろう。
 快適って感じるかどうかも
 人によって違うと思う。
 快適って感じたらそれはその人にとって
 幸せなんじゃないかと私は思う。

■幸せは人それぞれの
 価値観の違いだと思う。
 自分の心が豊かなのか狭いのかによって、
 感じ方も違うと思った。


「幸せは築くのではなく気づくこと」
という言葉が思い出されます。

■様々なものが進化して快適になる一方で、
 それは幸せではなく、
 ただのラクしたいだけなのではと感じた。
 もちろん必要な人には必要でもある。
 幸せとは快適ではなく、
 人々の感じ方によって異なっていると感じた。

■幸せは人によって違うものだと思う。
 都市部と比べて不便な生活を送っている私は、
 都会の人たちは幸せだろうなと思うし、
 快適な生活だけど欲求
 (自然に囲まれた中で生活したい、など)
 が満たされていない人は、
 田舎で暮らしてみたいと思うし、幸せは、
 その人の欲求が満たされるかどうかなので
 人によって違うと思う。

■幸せの価値観とは人によって
 必ず違うはずなので決めることはできない。


次に、幸せと快楽はイコールではない
という意見です。

例えば、幸せは自らの感度を高めること、
あるいは苦難を乗り越える中で培われるもの、
といった、自分が成長するという視点ですね。

■小型化し便利になるのは役立つが、
 人間のあるべき能力を奪うと思った、
 という意見が本当にそのとおりだと思った。
 快適なことで幸せを感じることも
 あるかもしれないが、快適=幸せとは限らず、
 快適過ぎることは自分でやり遂げることの
 楽しさを奪ってしまうと思った。
 コンピュータがないと
 何もできない人間になってしまう。

■快適があたりまえになると、
 自分の幸せの感度が下がっていくと思う。
 私は「快適」よりも何かに全力で取り組んで
 成し遂げる時の達成感を味わうことが
 幸せだと感じた。


全力で集中する(フロー状態)ことと、
やり遂げたという達成感を持つこと、
どちらも幸せをはかる指標かもしれませんね。

■快適であることは
 あまり幸せではないと思った。
 理由は、快適が当たり前になってしまうと
 自分の力がちゃんと出せずに
 幸せを感じなくなると思ったから。


ありがたみを持たなくなるということですね。
人への感謝の気持ちが失せてくる
ことにもつながりそうです。
誰かに感謝する日々を送ることも
幸せの条件かもしれませんね。

■今日は快適な暮らしとは幸せか
 ということについて話し合った。
 快適とは幸せではなく
 楽をしているだけだと思うので、
 自分で課題を見つけ
 乗り越えていくことが幸せだと思う。

■快適はすごく便利なことだし、
 好きなことをできるからいいと思うけど、
 人として成長することが幸せだと私は思うので、
 快適は知識をたくわえられず、
 成長がそこまでではないと思いました。

■昔の人はまだ便利な機械が少なかった分、
 自分たちで探究して生活していたので、
 知恵や技術が豊富だけど、現代の人は、
 便利なものに頼ってしているので、
 技術や知恵が少ないのだと思った。
 だから幸せとは言い切れないと思った。

■幸せ≠快適という意見に共感した。


次は、今回のディスカッション
全体についての感想とか、
俯瞰した意見です。
答えを一つに決めず、
多様な意見を認め合う
というスタンスも見られます。

■今回みんなの意見を聞いて
 一人一人しっかりと考えを持っていて
 なるほどと思うことがたくさんありました。
 普段の生活でもこのような
 意見の交換ができたらいいなと思った。


様々な授業の中で、
このようなディスカッションをする
場があればいいですね。

■「快適であることは幸せだが、
 快適過ぎると幸せを感じなくなる」
 という意見が私の意見に近かったです。
 答を一つに決めないということも
 良いと思いました。

■快適が幸せだと感じるかという
 感じ方にも個人差があり、
 なるほどと思った。

■この問いに答えはなく、
 一つの答を正しいと思ってしまうことは
 危険であるという意見になるほどと思った。

■多種多様な意見がありとても面白かった。
 快適であることが幸せだと思わないが、
 他のいろんな意見を聞いてみたいと思った。

■YES,NOに関わらず自分の意見を持ち、
 他人に押し付けることが
 ないようにすることもまた大切だと思う。

■幸せというのは人によって異なり、
 たくさんの意見が出て面白かった。
 自分は快適な生活を送るための
 エアコンなどにより、
 世界全体の環境などにも影響があるので、
 そのようなものの使い方については
 注意していかなければならないと思った。
 また「社会的弱者にとっては
 快適で幸せなのではないか」
 という様々な人の立場からの
 意見を聞くことができた。
 
■いろんな快適があって
 いろんな幸せがあることを
 理解していきたいです。

■「幸せとは築くのではなく気づくこと」
 今日はとても濃い内容のことを
 みんなで考えられたと思います。
 最後の、「それぞれ個人で意見は違う」
 ということは、ほんとにそうだと思います。
 この違いを人は受け入れる必要があると思う。

■この問を考えることによって、
 自分たちは「快適に過ごすことができている
 恵まれている人間だ」
 ということに気づかされました。
 快適であるのはすごくいいことだと
 感じましたが、
 幸せとはちょっと違うんじゃないかと
 私は思いました。


次に、ユニークな意見として、
言葉の定義について書いている人もいました。

■快適ということばの捉え方によって
 違っているのだと思った。
 使い方を選ぶことが大切だと思った。

■快適という文字の意味だけでいえば、
 心地よいという意味なので
 幸せではないのか。
 快適過ぎて幸せじゃないという状態は
 「快適」という文字では表せない。


その他、様々な意見です。

■答えのない問いだったけど、
 皆の考えが深いと思った。
 快適にしてくれるコンピューターは
 幸せの一つのパーツだと思った。


「PCは幸せのパーツの一つ」
面白いですね。使わせてください。

■個人的だけど、
 みんなと笑って一緒にいられて、
 毎日平和に生きていられるだけで、
 私は幸せだから、モノを手に入れるとか、
 権利を手に入れるとか
 そんなことがなくても、私は幸せです!!


このポジティブな生き方、かっこいいですね。
まさに幸せとはかっこよく生きることかな。

■個人的には、車に乗ること、
 スポーツをすること、いろいろなことには
 デメリットが付いてくるので、
 快適になることにデメリットを
 うんぬんすることはナンセンスだと思う。


これは深い考えだと思います。
つまりすべての物事には
陰と陽の部分がある。
快適さにも幸せも、そもそもが、
デメリットを内包しているものだ、
と私は受け取りました。

■僕は、快適で幸せな生活というのは、
 永遠に続くものではなく、
 一時的なものだと思うので、
 そのひとときを楽しめれば
 いいのではないかと思う。


快適さと快楽について
あらたな視点が生まれそうですね。

■考えによっては幸せであったりなかったりで、
 〇〇=幸せ、というのは
 もはや洗脳に近いものだと分かった。


メディアが、「幸せ」を提起し、
それが押し売りされる。
そして多くの人々による
同調圧力によって
個性、多様性が失われる。
それは洗脳なのかもしれませんね。

■快適であることは
 幸せであるかもしれないけれど、
 裏には不幸があることも忘れないようにする。

■幸せというものは、現在進行形で
 存在しないんだと思う。
 今快適な人はその前に、
 何らかの努力をしていた人で、
 そのような人は
 快適になっていることに気づかず、
 更に努力をし続ける。
 他人から見たら幸せでも
 その人はまだ先を見ているわけで、
 その先に辛いものがあったとき、
 「ああ、あのころは幸せだったなあ」と
 気づくものだと考える。
 このようなことから、幸せとは、
 つくるものではなく、できるもの、
 あるのではなく、あったもの。
 過去の過程を経て存在するものであり、
 今幸せだと感じている人は、
 過去の自分の記憶をよみがえらせて、
 どの過程が幸せを決めていて、
 それを達したとき幸せだと
 いっているのだと思う。


「幸せは、現在進行形で存在しない」
なかなか鋭い視点ですね。
なんとなくイチローとか、アスリートの
考えに近いかなと思いました。

■ニートとかってコンピュータとか家の中とかで
 快適に暮らしているけれど、
 それで幸せな人っていないと思うんです。
 俺が思うのは、不幸と幸せの架け橋が
 快適ではないかと思うんです。


図解入りでした。
これはもっと掘り下げてみたいテーマですね。

■みんなからいろんな意見が出たけれど、
 僕は快適であることは幸せである
 ということに少しくらいは
 イコールになっていると思う。


これって、ディスカッションの中で、
かき消されそうな意見かもしれませんね。

このつぶやきで多くの人は
立ち止まるかもしれません。




ちょっと長くなってしまいましたが、
以上、昨日の授業を振り返ってみました。

私は、この記事をまとめながら、
職員集団も、生徒たちを見習って、
職場でこのような議論をすることが
必要ではないかと強く思いました。

例えば、

学校(教師)にとって
「快適さ」と「幸せ」の違いは何か、

快適さを生み出す営みと、
幸せを生み出す営みは同じものか。など。

一昨年度から行ってきた
花高活性化プロジェクトは
そういう語りの場という意味もありました。
それは、本当に大切なことを
本当に大切なことにする営みです。



 

【授業力向上フォーラム(仙台)のご案内】

アクティブラーニング。

この言葉は、今や学校関係者には、
教育・学びを語る上で
一つのキーワードとして
定着しているのではないかと思います。

その言葉の定義や、理念、授業手法、
あるいはそれの是非については、
今ここでは敢えて語りません。

それはひとまず置いておくとして。

でも、私は、
アクティブラーニングという言葉が
流通したことによって、
教科・校種・職種など
様々な境界を越えて
「教育をどげんかせんといかん」
というムーヴメントが沸き上がり、
「学びを語るテーブル」ができたことは
評価すべきことではないかと思います。

さて、このようなムーヴメントの火付け役、
推進役として、忘れてはいけないのは、
産業能率大学が主催する
産能フォーラムの存在です。

それは、全国で地道な取組を
行っている実践家を発掘し、
彼らに光をあてる場であり、

更に、そこに全国から集まった
志ある教員どうしが交流し、議論し、
そして実践を共有する場でもあります。

そして、
「今日のオーディエンスは明日の登壇者」
というフラットな環境によって、
多くのアクティブラーナーが生み出され、
また、アクティブラーニング、
キャリア教育などが
生きて働く言葉として
再提起されてきました。

このような「越境して学びを語り出す」
というエポックをつくりだした
産能フォーラムは、
まさにアクティブラーナーを
生み出すためのプラットフォームとして
存在しているように思います。

私は、このフォーラムに対して、
提供されるコンテンツだけでなく、
なぜこのような、
まるで生命体ともいえる場が
生み出されたのかという、
組織論、経営論としても
興味を抱いています。

さてさて、本題に入ります。

そんな産能フォーラムが今年の8月3日、
ついに東北にやってきます。

授業力向上フォーラム(仙台)

というイベントです。

昨年は熊本開催でしたが、
今年は東北です。

全国の名だたる実践家が
そろい踏みするようなビッグイベントは、
東京や大阪などの
大都市で行われることが多いため、
地方から参加することは
厳しいものがあります。

それを克服するのが、
東北や熊本で開催する
意義の一つなんですね。

そして、もう一つの意義は、
東北の優れた実践者を
全国にアピールする
ということでもありますね。


その仙台フォーラムのチラシはこちらです。

ぜひご覧下さい。

仙台フォーラムチラシ→★★

宝の山のような、
とにかくもう凄いコンテンツです。

これは行くしかありませんね。

悩みは、魅力的なコンテンツが
重なっているためどこに出るか迷うところ。

そこで、ちょっとそのコンテンツを
整理した表を作ってみました。

こちらもご覧ください。

タイムテーブル→★★

申込みは、産能大フォーラムの
次のページからになります。

概要と申込み→★★


私も入魂の数学のワークショップを行います。

参加された方にはお土産を用意していますよ!

よろしくお願いします。

Don't miss it.