こちらのブログをご覧になっている皆様こんにちは。
以前にもご案内しましたが、現在このブログ「あなたと夜と数学と」は「イケオジ通信」という名前のブログに移行しております。
ですので、こちらのブログは、今後更新していかない予定です。
「イケオジ通信」の方をご覧くださいね。
因みに、イケオジ通信は、以下の6つのカテゴリに分かれています。
●
Radio Talkしもまっちの幸せ気分で●
音楽関係●
数学関係●
教育関係●
幸せについて●
数学ワンポイント講座現段階(1月25日)ではそれぞれ次のような記事を書いています。
●Radio Talkしもまっちの幸せ気分で(9件)
・生徒を生かす学校づくり①~⑥
・コラボ「音楽療法」
・「生きる力」と「生き抜く力」
・「探究」とは何か
●音楽関係(4件)
・ハノイの塔の音楽
・ドレミファの並べ替え
・等差数列の音階
・音楽療法体験
●数学関係(5件)
・Covid-19における均衡モデル
・名刺を利用した空間座標の導入
・3次関数のグラフの特徴を探る
・マンデルブロ集合
・クラインの壺
●教育関係
・参加型授業の一つの理論武装
・ホワイトボードでグランドデザイングラフィティ
・「PISAショック」の私見
・「失敗から学ぶ」を学ぶ
・長寿恩恵社会は人を勇気づける
・蛾のヒステリーほか
●幸せについて(7件)
・あなたとハピネスと数学と
・well-being teacher’s café 備忘録
・well-being cafe より 強みを知る
・well-being cafe on Clubhouse
・「選択理論心理学」のイメージ
・ハッピーマネジメントの概念図 そして臓器モデルのこと
・あけましておめでとうございます
●数学ワンポイント講座(21件)
・円に内接する四角形のポイント
・ベクトル(共線条件・共面条件)
・ベクトル(一次独立のベクトルに分解)
・数列(漸化式・数学的帰納法)
・三角関数(動径で考える)
・整数問題(素数のペア)
・数学Ⅱの定積分を指導するイメージ
・2変数関数の極値
・東大文系数学添削講座より① 通過領域
・和積公式説明器
・東大文系数学添削講座より② 解と係数の関係と漸化式
・ちょっとおもろい順列の授業
・三平方の定理エトセトラ
・東大文系数学添削講座より③ 円錐台の体積
・相加相乗平均の不等式
・続相加相乗平均の不等式
・二乗比例法則
・親亀子亀三角形で三角関数の勉強
・共通テスト数学Ⅰ・Aを解いてみて
・東大文系数学添削講座より④ ヘロン三角形で遊ぼう
・続共通テスト数学Ⅰ・Aを解いてみて
では皆様「イケオジ通信」でお待ちしています~
一昨日、well-being teacher’s café が行われました。
これは、齋藤みずほさんと、永島宏子さんが、
現場で苦労している学校の先生たちに、
もっと幸せを意識して欲しい、
幸せになって欲しいという、
先生応援プロジェクトとでもいう趣旨で
行われているオンラインカフェであります。
みずほさんから、幸せに関する
いくつかの知見が話され、
それをもとに参加者が、
「モット気軽に、モット日常的に」をモットーに、
やわらかい雰囲気の中で
幸せについて自由に対話していきます。
今回私は2回目の参加でしたが、
参加するたび、いろいろな発見があり、
そして、幸せ感が高まっていくように思います。
では、今回気づいたことを
備忘録として思うままに
まとめておきたいと思います。
「金継ぎ」で思ったこと金継ぎとは、欠けてしまった器を、
漆や金を使って修復する
日本の伝統的技法です。
そこには、本物であればこそ壊れる、
そして壊れたものを
修復することで魂が宿り、
新たな価値が生み出される、
そんな精神性が垣間見えます。
このことを敷衍して、
器を人に置き換え
次のように考えてみましょう。
「人は不完全な存在である」
→「そのことを自ら受け入れよう」
→「不完全な存在だからこそ、
心を痛めることもあり、
苦しみや悲しみに
出会うこともあるはずさ」
→「そういった感情や出来事も大切に扱おう」
→「それによって、悲しみは優しさに、
苦しさは勇気に変えていくことができるかも」
→「そこから逃げてしまうと、
その負の感情はむしろ強化されちゃう」
こんなことなのかなと思います。
私は、金継ぎの話を聞きながら、
なぜか「学級崩壊」について
思いを巡らしていました。
小学校の段階で学級崩壊が起きると
それは大変です。
まさに大切に扱ってきた器が
粉々に壊れてしまった
ようなものかもしれません。
そこで金継ぎなのです。
「学級」とは崩壊を内包する存在です。
なぜなら「学級」とは日々変化する生き物であり、
割れないプラスチックのお皿ではなく
本物の陶器だからです。
だからこそ教師は、
崩壊しないよう
懸命に学級経営に努めます。
しかし、どんなに細心の注意を払っていても
崩壊することもあり得ます。
であるなら、崩壊に直面した後に
どのように「金継ぎ」するかを
前もって考えておくことが
大切ではないかと思ったのです。
このようなことを言うと、
学級崩壊を経験されている先生からは、
部外者のお気楽な気休め
と叱られるかもしれません。
そんな生易しいものではない
とも思われるでしょう。
それはとてもよくわかります。
私の子どもも学級崩壊にあい、
私も学校に何度か足を運び、
その惨状を目にするたびに抱いたのは
絶望感ばかりでした。
しかし、「崩壊」することを恐れ、
それを「撲滅」することだけを考えることは、
実際にそれが起こってしまったときに、
そのつらさや絶望感はむしろ
増すばかりではないかとも思うのです。
もし、「崩壊」しそうになったらどうするか
と同時に、
それでも崩壊してしまったとき、
どうやって金継ぎして生まれ変われるかを、
前もって「子どもたちとともに」
考えておくことが
あってもいいのかなとも思いました。
壊れた器を復活させる金継ぎを、
人だけでなく、「学級」にも
考え及ばせることが
できるのではないか。
そんなことを思ったのでした。
「感謝」「笑顔」から始まる幸せ感謝をする人は、そうでない人より
喜びや熱心さといったプラスの感情が高く、
妬みや苦しみから自分を守る力も強い
という研究結果があるとのことです。
そのときに、私の頭に思い浮かんだことは、
「笑顔と幸せにおけるニワトリ・卵論」でした
(そんな論なんかないけど 笑)。
つまりニワトリ論で言えば、
人が笑顔になるのは、
その人が何らかの
「幸せの状態にいる」からであって、
笑顔の状態をつくることによって、
自動的に幸せが導かれる
というものではない
という考えですね。
一方、卵論は、
「幸福だから笑うのではない、
笑うから幸福なのだ」という
アランの言葉でまとめられますね。
そういえば以前、TEDに登壇した
イギリスのロン・ガットマンという学者が、
一度の笑顔は、チョコバー2000個分と
同等の刺激を脳に与える
と話していたことがありました。
ついでにもう一つ言うと、
チャップリンの「モダンタイムス」の挿入歌
「スマイル」の
「どんな辛いことがあっても、
ただ笑ってさえいれば生きていける」
という歌詞が泣けますね。
どうやら「卵論」が優勢ですね。
ということで、「感謝と幸せ」も同様に、
感謝が先行することで、
幸せがついてくると捉えたいですね。
まあ、そんな理屈をこねなくても、
自分の胸に聞いてみると
確かにそうだなあと思います。
一日3つの感謝を記してみる、
寝る前に今日一日に感謝する、
などという経験は
人生を変えてくれると思います。
さて、そんな「感謝」をめぐる話から、
ちょっと飛躍するようにも
思われるかもしれませんが、
私が関心を持ったのは、
「思いと言葉」なんです。
これも「感謝と幸せ」
「笑顔と幸せ」と同様、
「言葉」というカタチによって、
「思い」が伝わるのか、
それとも「思い」があるからこそ
「言葉」として表現されるのか、
というまあ、ちょっと屁理屈的ではありますが、
そんなことを思ったのでした。
例えば、偏差値至上主義的な言い方で
生徒を追い込む教師と、
一方、子どもの主体性を考えた
話し方をする教師がいたとします。
一見、両者は全く異なる価値観を
有しているように感じます。
しかし、もっと先を探っていくと、
そこに
「生徒が幸せになることを応援したい」
という共通の根っ子が
発見できるかもしれません。
子育てでも、
子どもに過干渉的になり
小言ばかり言う親もいますが、
やはりそれは子どもに対する
愛情の発露とも言えるはずです。
私は常々、言葉とは思想であり、
心映えであると思っていたので、
学校改革や授業改善のためには、
その前提として
「思い」にフォーカスすること、
つまり教師のマインドセットとか、
教員文化にメスを入れることを
主張していました。
ですが、今回のカフェを経験して、
その逆方向に考えていくことも
アリなんだなあと思いました。
つまり、思いの伝え方、言葉の使い方、
そういったスキルこそが
教師に不足していたのではないか
と感じたのです。
考えてみれば、教師は、
その職業についたとたん
「先生」と呼ばれ、
そういう属性をもって生きることを
強いられるわけです。
そんな中で、結局、
自分のパーソナリティを過信したり、
過去の生徒時代に教わった先生の
教師像をなぞるとかといったやり方で
子どもと接してしまうことが多いわけです。
私は高校時代、
校長先生の朝礼の長い話が始まると
「えー」を何回言うかを数えていました。
「今回は250回で
最高記録を更新したな」とか。
言葉の使い方講座、
人の話をよく聴く講座、
活舌をよくするトレーニング、
などカタチから入っていく
教師力養成講座も
必要であるなあと思ったのです。
<追記>
そんな話を参加者の皆さんと
共有させていただく中で、
みずほさんから、
ゲイリー・チャップマンの
「5つの愛の言語」の紹介がありました。
私は初めて聞いたのですが、
愛を表現する言語とは
「肉体的なコンタクト」
「肯定する言葉」
「充実した時間」
「ギフトする」
「サービス行為」
なのだそうです。
自分が愛する人は誰であり、
その人に対する愛の表現は
どれを中心に行っているのか、
どれが不足しているのかなどについて、
皆で楽しく語り合ったのでした。
学びとは「欲望への欲望」参加者のT先生が、
「自分は喜びや嬉しさを
大げさに表現するタイプではなく、
それよりも人が喜ぶ姿を見ることが
自分の喜びになる」
ということをおっしゃいました。
私もそのような傾向があるので、
T先生に共感しました。
ですが、同時に、
最近ある方から言われた
あることを思い出しました。
それはこんな話です。
「しもまっちは、
人を喜ばせることが好きなんだけど、
しもまっち自身が大喜びしたり
本気で嬉しそうになっている姿を
人に見せることが、
同じようにそれを見る人にとっての
喜びでもあるんだよ。
だから、気を使わないで
もっとはしゃいだり、ドヤ顔で
自分自慢をしたりした方がいいよ」
そこで、そのことをTさんに話しました。
するとTさんはこんなことを話されました。
「そういえば、先日授業で
マヤ文明についての話になったとき、
自分の専門であり、
大好きで得意な分野なので、
つい夢中になって
熱く語ってしまいました。
そうしたら生徒が、
先生カッコいい💛というカンジで
とても喜んでくれたことを思い出しました」
私は、Tさんの話を聞いて、
学びの本質のようなものを感じました。
私が指導主事時代に
「教師と生徒の関係」という文脈で
よく持ち出していたのが、
高橋勝氏(横浜国立大教授)の言葉です。
少し長くなりますが以下に引用します。
フランスの哲学者ジラールは、
『暴力と聖なるもの』の中で、
欲望とは、主体Aの内部で
自然発生的に生じるのではなく、
主体Aが惹きつけられる身近な他者B
(例えば、男子にとっての父親、
生徒にとっての教師、
自己にとっての競争相手)
が対象Cを欲望するが故に、
対象Cを欲するようになるという
「隠された三項関係」の構造を
明らかにしている。
ジラールのこの「欲望のミメーシス(模倣)」論は
生徒の学びの深層を理解する上でも
実に貴重なヒントを与えてくれる。
通常は教師が提示する知識を学ぶ
と考えられているが、
実際はそう単純なものではない。
学びとは、宅配便を受け取るのとは
まるで異なるからだ。
それは、むしろ身近な他者との
共犯関係において開かれたり、
閉じられたりしていくものだからである。
ジラールに従えば、生徒にとって教師とは、
知識への挑発者として目に映るのであって、
知識の所有者、例えば学者と同じではない。
子どもの目の前にいる教師は、
知への欲望にかられていて、
それに夢中になり、
その欲望のオーラを有形無形の形で
生徒に見せ付ける存在である。
子どもは、教師の所有する知識にではなく、
彼/彼女が抱く欲望と
その言動に滲み出る情熱に惹かれるのである。
教師の知識に惹かれるのではなく、
教師の「知への欲望」に惹かれるのである。<中略>
生徒は教師の「あこがれにあこがれる」と同時に、
知への欲望に欠けた教師の
惰性的な授業やその振る舞いをも
無意識のうちに模倣し内面化する。(以下略)
ここにあげた「欲望への欲望」の話は、
「「おじさん」的思考」(内田樹)の中の
「教育とエロス」という項にも書かれていて、
そこではジラールではなく
ヘーゲルの言葉を通して
まとめられています。
こちらもめっぽう面白いのですが、
もうかなり長くなっちゃうので
ここらで終わりにしたいと思います。