「数列の和マニアック系」

久しぶりに数学の記事を書きます。
今回はマニアック系です。

初項a公差dの等差数列の
第n項までの和は

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と表すことができます。

この式の右辺を展開してみましょう。

suretuwa-04.png

更に、コンビネーションの記号を用いると

suretuwa-05.png

と表すことができます。

なぜ、このように表せるのでしょう。
次の図で説明します。

sureruwa-01.png

これは数列の下方に階差を、
上方に和をつくっていった図です。

これを見ると、例えば、第6項までの和は
aが6回、dが15回
足されていることがわかりますね。

つまり、求める和は、
a,dがそれぞれ何回足されるかを
調べればよいということですね。

この足される回数は、
上に示した図を見れば、
次のような道順の数を
数えあげることに
対応していることがわかります。

<aの足される回数を示す図>

suretuwa-18.png


<dの足される回数>

suretuwa-02.png

このことから、等差数列の和は
コンビネーションを用いて
表されることがわかるわけです。


では、この考え方を用いて
いくつかの数列の和を考えてみましょう。


では、階差数列が等差数列になるような
数列を考えてみます。

例えば

2,3,7,14,24・・・

この数列の第n項までの和を求めてみましょう。

一応、普通の求め方は以下の通りです。

suretuwa-10.png

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では、これを、
コンビネーションによって求めてみましょう。

図のように数列の和と階差数列を作ってみます。

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すると、第n項までの和は

数列の初項2
第一階差数列の初項1
第二階差数列の初項3

の3つの数が何回足されているかを
考えればいいわけですね。

第6項までの和を考えてみましょう。

それぞれの数が送り込まれる様子を、
次のような図で示します。

<2が送り込まれる様子>

suretuwa-08.png

<1が送り込まれる様子>

suretuwa-09.png

<3が送り込まれる様子>

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よって、第6項までの和は
12+15+60=87となりますね。

すると、第n項までの和は
次のようにして求めることができます。

suretuwa-12.png

ついでに一般項も求めておきます。

まず、階差数列の第n項までの和が

suretuwa-13.png

であることから、

suretuwa-14.png


オマケとして、ベキ乗和を求めてみましょう。

ベキ乗の数列は、差分をとっていくと、
何回目かに必ず等差数列になりますね。

その階差数列の初項を調べれば、
ベキ乗和は決定されるわけですね。

平方和

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を考えてみましょう。

第一階差数列は

3,5,7,9,・・・

第二階差は

2,2,2,2,・・・

つまり、1,3,2が
何回足されるかの数え上げです。

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同様に、立法和、4乗和も記しておきましょう。

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ちなみに、ベキ乗和を差分化していくのは、
ライプニッツのアイデアです。
私は、差分と微分の親和性について
授業で説明する時にこの話題を
しばしば取り上げています。



最後に、予防線を張っておきます。

私は、数学の先生方に、
このような、教科書にはない
面白話題やマニアックな手法
などの話をよくするのですが、
それに対して、めちゃ面白がってくれる人と
顔が曇って、話題をそらそうとする人の
2つのパターンに分かれます。

後者の人はだいたいこんなことを
言ってきます。

「これって授業で教えているんですか?」

「こんなことを教えるとかえって
混乱するんじゃないですか」

「面白いかもしれないけれど
本校の生徒にはムリ」


あ~あ。脱力。
共に数学を語るに足らず。

彼らになぜ数学を教えるのかと聞くと
きっとこう答えるのです。

生徒に受験を乗り越えさせたい
教科書をわかりやすく教えたい
生徒にテストで良い点数をとらせたい

これは一見、「生徒のため」
のようにみえます。
事実彼らは「生徒のため」という言葉を
錦の御旗のようによく使います。

恐らく、生徒との間にも
そういった関係性が成立して
授業をまわしているんだろうな、と思います。

「先生これってでるの」
「出すからやっとけ」
「でもこっちは今は覚えなくていいから」

とかね。

でもねえ。

私には、むしろ生徒を信頼していない
上から目線のように感じるのです。

「生徒のため」を連呼する人にかぎって
教える内容を狭めたり、
生徒を箱庭に入れて過剰にコントロールし
自由な学びを奪っている。


生徒はノーリミットであることを知っていて、
教師ができることなんて生徒の背中を
ちょっと押すことに過ぎないことも知っていて、
そして、教師自身が、
教科の面白さにハマっていて、
そのエロスを子どもたちに降り注ぐ。

そんな教師に私はあこがれるのです。

ちょっと脱線してしまいましたね。

失礼しました。



 

「地歴AL研修会振り返りPART2」

もうだいぶ昔の話になってしまいましたが、
2月2日に行われた、地歴AL研修会での、
さっちゃんこと筑波大学五十嵐先生の
授業についてまとめておこうと思います。

尚、授業メモを失くしてしまったので、
曖昧な記憶を頼りに
記してしまうことをご容赦ください。


授業の冒頭、
昨年度本校を卒業した大江さんから、
自身が高校時代に行った
マルカン復興の取組みについての
お話がありました。

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五十嵐先生は、大江さんの話しを受けて、

「私にとってマルカンとは」

という問いを立て、
ペアでの話し合いを行います。

「小さい頃からの思い出の場所で、愛着がある。
だからなくなることは嫌」

という意見が出る一方、

「特に思い入れはない」

という意見も出されました。

そこで、五十嵐先生は生徒から発せられた
「愛着」という言葉に注目し、

「花巻に対して愛着がある?ない?」

という第二の問いを立て、
「ある派」「ない派」を混ぜ合わせて
グループディスカッションを展開します。

ここで、筑波大学の学生6名と、
大江さんを含めた京都大学の学生3人が
生徒の議論に混ざり、討議を活性化
させているのも注目ポイントです。

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花巻に愛着を持っている生徒の多くは、
花巻を「昔からの思い出の場所」
「友人との語らいの場」「ふるさと」
と受け止めていて、
花巻がなくならないように、
魅力あるまちづくりが必要である
といった話をします。

一方で、

「花巻以外にある魅力的な町や、
便利な町を私たちが選んで出ていくことは
そんなに悪いことではない。
悲しいことかもしれないけれど、
それが自然の流れではないか」

という意見も出されました。

もちろん「ある派」が多数ではあったのですが、
「将来花巻に住みたい」
と考えている生徒を挙手させたところ、
何と40人中5人しか手が挙がりませんでした。

つまり

「愛着はあるけれど将来花巻に
住もうと思っていない人が90%近くである」

という状況が明らかになってしまったのです。

五十嵐先生はここで、
生徒たちを立ち止まらせる問いを投げつけます。

それは、

「愛着」「ふるさと」「昔の思い出」
などといった言葉の主語は誰なのか、
つまり、誰にとっての「ふるさと」なのか、
という問いです。

それは「自分」なのか「花巻市民」なのか。

もし、「花巻市民」にとっての「ふるさと」とすれば、
このクラスの12.5%しか
花巻に残らないといっているので、
将来花巻に住む人はどんどんいなくなって、
やがて潰れてしまうのではないか。

こんな話をしながら、

「じゃあどうすれば花巻を残すことができるか」

という第三の問いに進み、
更にグループでの議論を展開します。

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生徒達からでてきた意見は
例えばこんなカンジだったかと思います。

●町が無くなっても文献などで名前を残す。
 (花巻江戸時代化計画)
●花巻ならこれ!という
 アピールポイントをつくって発信する。
 (強み発信計画)

ここで、五十嵐先生は
生徒達の意見をまとめながら、
次の様な提起を行います。

「ふるさと」につけられていた
「自分の」「花巻市民の」
という冠を取り去ってみる、

そして、その代りに「日本中の」「世界中の」
という冠をつけてみたらどうだろう。


更に、「市民」とは誰なのか、
という問いに置き換えて話を深めます。

「市民」とは、「その市に住んでいる人」といえる。
しかし、そのように捉えてしまうことで、
状況は悲観的になってしまうこともある。

実は「市民」にはもう一つの意味がある。
それは、「誰でも」「すべての人」
というものである。


このような流れで、
境界を越えて全ての人が
まちづくりに参画する政治が
民主政治の理念であるという理解に
生徒たちを導いていきます。

そして、そのモデルとして、
「モノ」ではなく「生き方・暮らし方」を
全米に向けて提供している
ポートランドについての紹介がありました。

このポートランドの例を踏まえながら、
最後の問いを発します。

「花巻」という「暮らし方」をどうやってつくるか。

「花巻という町」を残すのではなく
「花巻という魅力的な暮らし方」を
どうやって日本中の人達に提供できるか。

どんな暮らし方をすれば、
日本中、世界中の人が幸せになれるか。

つまり、世界が幸せになるために、
「花巻」をどう使うのか。


このような問いを生徒達に投げかけて、
授業が終了しました。


この授業は、ありがちな、
地域復興のアイデアを出し合う
ワークショップではありません。

それを越えて、
「地域復興」という御旗の中に
隠れてしまっている命題を掘り起こし、
そして、その議論に向かう人々のマインドを
問い直していこうという授業なのです。

すると、そこに存在する哲学は、
花巻復興という文脈に留まらず、
様々な事象に通底するものと
捉えることができるのではないか、

授業を聴きながら、私はそのように感じました。

実は私は、この授業を、
途中から勝手に頭の中で
「授業論」に読み替えて聴いていました。

例えば「地域復興」を「学力向上」
という命題に置き換えて考えてみます。

「学力向上」というと、
往々にして様々な手法や、
どんなコンテンツを提供するかといった、
プラクティカルな方向に議論が進みがちです。

そして、誰もがすぐ使える「解答」を求め、
学力向上を「自動化」しようとします。

しかし、「こうすれば得だよ」、
「このメソッドが効果的だよ」、といった、
ある意味哲学なきスローガンは、
一時をしのぐカンフル剤になるかもしれませんが、
持続するものになるか疑問です。

五十嵐先生は、「ふるさと」に被せられた
「自分」という冠を外す、
ということを提起されました。

それは、授業において、
教師が従来の固定観念に
とらわれていることから解放されること、
あるいは、肩書や属性や過去の慣例
などといった「鎧」を脱いでいくことではないか。

また、「花巻にあるモノ」ではなく
「花巻という暮らし方」を提示するというのは、
「授業メソッド」ではなく、
教師の佇まいを含めた
新たな学校文化を構築することによって、
生徒の心を動かそうとすることではないか。


「学力向上」のために教師はどうするか。
「魅力ある授業を提供する」
では「魅力ある授業とは何か」
それは、スペシャルなコンテンツという
「解答」にひたすら触手を伸ばすことではない。
教師がどんな哲学を持って
「学び」に向かうかということ。
これが生徒の心を掴むための生業である。
そのためには、肩書や属性といった鎧を脱ぐこと。
そして境界を越えて人が繋がりあうこと。
そんな学校文化をつくっていこう。


「花巻復興」のために市民はどうするか。
「魅力ある花巻を提供する」
では「魅力ある花巻とは何か」
それは、イベントやインセンティブなどの
「カンフル剤」に手を出すことではない。
市民がどんな哲学を持って
「暮らし方・生き方」を提示するかということ。
これが世界中の人々(=市民)の
心を掴むための切り札になる。
そのためには、肩書や属性といった鎧を脱ぐこと。
境界を越えて人が繋がりあうこと。
それを基盤にした社会をつくっていこう。



そんなことをぐるぐると考えていました。

そこで私はハッと気づきました。

そうか。

実は、今回行ったAL研修会で
私が抱いていたテーマはこのことだったのだ。

つまり、五十嵐先生の授業は、
実は我々教師に向けての
メッセージでもあったのだと
ビビッときたのです。

それは、うがち過ぎ
という人がいるかもしれません。

しかし、学びとは、
教授者が何を与えたかではなく、
学習者が、そこから何を
自ら掴みとったかということ。

だとすれば、参観した教師たちは
五十嵐先生の授業から、
想像力を働かせてメッセージを
自分事として受け止めなければなりません。

少なくとも、教えのプロを標榜する
教師であるのならばなおさらです。

そして、研究会では、
評論家目線で授業分析するのではなく、
自分が何を掴み取ったかについて、
皆でディスカッションする場であれば
良かったなあと感じていました。


 

「日本史×政治経済コラボ授業にみる3つのチャレンジ」

2月2日に行われた、日本史A✕政治経済の
提案授業について振り返ってみたいと思います。

この授業には
3つのチャレンジがあったと思います。

一つは、授業者の学校を越えたコラボレイトです。

今回の授業を行うにあたり、
本校の助川教諭と盛岡三高の高屋教諭が、
学校を越えて共同で教材を研究・開発し、
実践を行うことができたことは
大変画期的なことではないかと思います。

このように互いのリソースを
共有することによって、
教師の見識が高まるだけではなく、
それが他の教員に波及していく文化が
生まれていくことを私は期待しています。

髙屋教諭が、授業後の振り返りの中で、

「助川先生と事前の授業構想を一緒に練る中で、
先生の教材感に大いに刺激を受け、
私にとってはまさにOJTでした」


と話されていたことがとても印象に残っています。

今後の高校再編を考えるにあたり大切なことは、
局所的な手当てではなく、
全県的な視点に立っての
マンパワーの活用ではないかと思います。

それは、数をどうするかの問題ではなく、
学校という境界を越えて交流し、
知見や授業技法を共有しあうような
コミュニティを生みだす
ことではないかと思います。

そういう意味で、
今回の授業後の研修会において、
校種、職域、地域を越えた参加者による
ディスカッションが行われたことも
特筆すべき点として
付け加えておきたいと思います。

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二つ目のチャレンジは、
クロスカリキュラムの視点です。

本時の学習テーマは、
「戦後の日本経済の流れ」を理解し
「今後の日本経済」について確認する、
というものでした。

そこで、まず、戦後政治史の変遷という
歴史的側面について、
前日までの段階で本校の助川教諭が担当します。

そうやって土壌を耕した後に、
高屋教諭が政治経済の視点に立って
タネをまいていったのが
本時の授業であったということです。

授業展開をもっぱらリードするのは、
政治経済担当の高屋教諭であり、
助川教諭はサブに徹して
授業をサポートします。

私は、今回の授業を参観しながら、
助川教諭というOS上に、
髙屋教諭というアプリケーションが
起動されているというイメージを抱きました。


教科どうしをつないで、
教材に新たな息を吹き込むこと。
それによって、テストのための勉強から、
生きて働く知識に展開される。

今後の教材研究、教材開発は
このような視点が
求められるのではないかという気がします。

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余談になりますが、私は、この授業を観た後、
数学と保健コラボレーションを考えました。
内容は、今年のセンター試験の
データ分析問題の解説を数学の教員が行い、
その後、保健の先生に
バトンタッチするというものです。

なぜかというと、今年のセンター試験には、
BMI(ボディマス指数)の話題が
何の説明もなく登場していたからです。
この問題は、ロジックを駆使すれば
パーフェクトに答を出すことができるでしょう。
でも、たとえ答が求められても、
保健・健康の視点がなければ、
その問題が訴えている本質、真実には
到達できないと私は思うのです。


さて、

三つ目のチャレンジは、メディアの活用です。

髙屋教諭は、この授業を行うために、
前もって20分ほどの事前学習動画を作成し、
YOUTUBEにアップしました。

初対面の授業ということもあり、
これは大変効果的であったと思います。


ここで、「反転授業」について
少し論じておきたいと思います。

高屋教諭は配布プリントで反転授業を
次のように説明されています。

「事前に各自で
動画視聴などを通して
個人で知識を理解
→授業では知識を活用して
思考や表現をする」


つまり、「表現」を活発に行う授業にするための
前提として、事前に家庭等で
準備をしておくということですね。

ところが、しばしば、反転授業を、
「教師が授業をスムーズにすすめるために、
前提となる知識を家庭で予習しておく」
と捉えている教師に出会います。

それは単に、「予習をして授業に臨め」
というのと変わりませんね。

気をつけなければならないのは、
このような事前課題とは、
教科書の進度を確保するといった、
教師の都合で行われるのではなく、
あくまで、授業をワクワクさせたいとか、
対話型のアクティブな授業を展開する
という目的がその先にあるからこそ
行われるということを
明記しておきたいと思います。

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「反転授業」で私が思い出すのは、
サマンサこと才神敦子さんが行う
「ドラマキャンプ」。
全国から子どもや大人が一同に集まり、
そこで英語劇を創作するという活動です。

サマンサさんは、集まってから、
何をするかなどの講義を行うのではなく、
事前に参加者にシナリオが配っておきます。
そのことによって、
「教室」という空間に集まった人たちは、
知識のインストールからではなく、
最初から対話や創造の活動を
自発的に行っていけるわけです。

私は、今回の授業動画の配信は、
授業の中で対話を活発にさせること以外に、
以下のような価値を感じました。

1 スマホなどのデバイスを
 授業で活用することについての
 問題提起。

2 開発した優れた教材を
 メディアコンテンツとして蓄積し
 それを共有化するという展望。

3 今後のZOOMなどのテクノロジーを用いて
 外部とつながる授業の可能性。

以上、私が今回の授業で感じた
3つのチャレンジについてまとめてみました。


最後に、高屋先生からメールでいただいた
振り返りの中で、
「深い学び」について
大変興味深い記述がありました。

高谷先生に許諾をいただきましたので、
その部分を以下に掲載させていただきたいと思います。

ご意見やご感想をいただければありがたいです。



 <前略>
特に私の中で最も心に残り、
今後の授業作りの大きなヒントになったのが、
研修会で同じグループだった
次世代型教育推進センターの先生から出た疑問です。
それは、
「前半の戦後の日本経済史を概観するという活動が、
後半の生徒の思考する活動に
どの程度生かされていたのか」
というものです。

私としては、前半のA~Dの時代の流れをつかむ中で、
経済状況には波があること、
好景気は一定の要因があって発生すること、
等に気づかせながら、
それらの要因がこれからの時代ではどうなるのか、
また各要因を総合的にみたときに
果たして景気は上向きor下向きとなるのかを考えさせる、
という授業のイメージだったのですが、
後半発表した2人の生徒から出てきた

「オリンピックや改元で多少上向きになって、
その後は停滞するのでは。」

といった(おそらく大半の生徒がそこに落ち着いた)意見は、
ひょっとしたらプリントAからの学びがなくても
出て来得るもので、
プリントAとプリントBのつながりを
うまく作れていなかったな、と反省しました。

もっとプリントAを通して
約70年間の経済の波(好景気の後には不景気、
不景気の後には好景気というように
いろんなきっかけで景気が変動していく様子)を
生徒が感じとれるようにしていけば、
違ったかもしれ ないと思います。

「主体的・対話的で深い学び」の中でも
特に「深い学び」の部分に
どう生徒を連れていくのかが
私の中の授業改善の課題の1つです。

恥ずかしいことですが、
「主体的・対話的」にばかり自分の意識が行って、

「生徒が活発にわいわいやりとりしている授業
=AL型のいい授業」

であるかのような錯覚をしていた時期がありました。
その時、(気のせいかもしれませんが)
生徒の側も授業の中で一生懸命ALっぽく
振る舞い始めるような気配を感じ、苦しくなりました。

授業者として自分が無意識に生徒に伝えていた
無言のメッセージが、以前は

「机に座って授業者の話を黙って聞き続けることが
あるべき生徒の姿だ」

としたら、今度は

「一生懸命となりの生徒と活発 に話し合うのが
あるべき生徒の姿だ」

に変わっただけではないか、と思ったからです。

でも
「それは違う、ALで授業中の
生徒の多様な姿・考え方を引き出したいのに、
画一的な生徒のあり方を押し付けてるのでは
旧来と何も変わらない」
と思いました。

そして、「主体的・対話的」な結果として
「深い」学びになるのだとしたら、
どう学びの深さを保障するのかを考えなくては、
と思いながら、
「でも深い学びの「深い」って何なんだろう」
っていうのが正直な気持ちでした。

そして今回、この
次世代型教育推進センターの先生のご指摘から、
「学びの深さ」を見取る指標の1つに、
授業内の「知識・理解」の活動が
「思考・判断・表現」にどう生きていたのか、
「知識・理解」の活動があった場合と
なかった場合とでは、
「思考・判断・表現」の活動に
どのような差が生まれたのか、
という視点があるのでは、という気づきを得ました。

ひょっとして、「知識・理解」の活動がなくても
言えてしまうような発言ばかりが
「思考・判断・表現」の中で出てきていないか、
を冷静かつ具体的に見ていくことが、
生徒の学びの深まりを作る授業につながる、
という気がしています。




高屋先生の授業に対する真摯な姿勢と
プロフェッショナリズムを感じる振り返りです。

今後、更に多くの人達が、この学びの輪に
加わる中で、新たな気づきが生まれてくるものと
思っています。



 

第2回地歴公民AL研修会無事終了

2月2日に行われた
第2回地歴公民AL研修会、
無事に終了しました。

授業や研究会の内容は、あらためて
ブログにまとめたいと思っています。

因みに、今回の研究会(ワークショップ)
参加メンバーは

■大学の先生(筑波大・東北工業大)
■大学院生(筑波大6名)
■大学生(京都大3名)
■教育行政関係(次世代型教育推進センター3名・
 岩手県総合教育センター)
■県外高校(米沢興譲館2名)
■県内高校等(盛岡三2名・大船渡東・
 釜石・宮古・山田・警察学校)
■中学校(南中(北上)・遠野中)
■本校職員8名

というように、バラエティに富んでいます。

そのことによって、
授業者をまな板にあげて、
いわゆる「指導案」から始まる、
授業者の教材観や
授業技法ばかりをひたすら分析していく、
ありがちな授業研修会に陥ることなく、
新鮮なディスカッションが
できたのではないかと思います。

声を失っていた私は、
皆さんの意見を
ひたすら聴かせていただくだけでしたが、
特にグループ発表で、
筑波大、京都大の学生からの
積極的な発言を聴くことができ
とても嬉しかったです。

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今回の取組みを見ながら、
授業研修会は
「レッスンスタディ」から
「評価コミュニティ」に
進む必要があるのでは、
というイメージが湧きました。

そのために、メンバーの中に
学習者の生徒たちも交えていく
という発想が必要かもしれない
と思いました。

提案授業を行ってくださった
盛岡三高の高屋先生、
筑波大学の五十嵐先生
ありがとうございました。


ところで、今回の地歴AL研修会に先立ち、
次世代型教育推進センター
(独立行政法人教職員支援機構)から
3名の先生が午前中から
密着取材に来られました。

イベントが始まる前の午前中に、
本校で行っている
カリキュラムマネジメントについて
私から1時間程、
総学バトルについて
担当から1時間程説明をいたしました。

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医者から声を使うことを制限されていたので、
スライドやペーパーを準備したのですが、
やっぱり熱く語ってしまいました。

その後、一昨年まで仙台二高の
校長先生をされていた
渡邊先生が来られたので、
張り切って学校を案内したり、
花巻文化村にお食事にお誘いしたりと、
有意義な時間を過ごしながら、
公開授業と研修会に
流れ込むことができました。

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とにかく「有朋自遠方来」の一日で、
夜の懇談会まで、
まったくもって充実の一日でした。

これをフルスロットルでやっていたら
大変だったかも。

声が出なかったおかげで
行動がセーブできたこと、
やはり神のおぼしめしでしょうか。




 

第2回「筑波大学による哲学カフェin花巻」

いよいよ2月2日に、
地歴公民アクティブラーニング研修会が
花巻北高校で行われます。

目玉の一つは盛岡三高の高屋先生と
本校の助川先生の政治経済×日本史コラボ。

以前ブログで紹介した記事はこちらです→★★

先日、高屋先生がYOUTUBEに
20分の動画をアップされました。

本校の生徒たちがその動画を
視聴した上で行う反転授業です。

もう一つの目玉は、
筑波大学の五十嵐先生と、
昨年度本校を卒業した
大江さん(京都大)とのコラボ授業。

現代社会がテーマですが、
何が飛び出すかは当日のお楽しみ。

さて、その五十嵐先生から
先ほど連絡をいただきました。

この研修会の翌日の2月3日(土)
第2回「筑波大学による哲学カフェin花巻」を
マルカンビルで実施するとのことです。

時間は13:00~15:00 

年齢、性別、職業等問わず、
誰でも参加できます、
皆さんお気軽においでください!


フライヤをご覧ください→★★